なにやらわけのわからないようなタイトルであるが、『日本国語大辞典』の見出し「あつかいにん」は次のように記されている。「あつかいて」もともに掲げておくことにする。
あつかいにん【扱人】〔名〕「あつかいて(扱手)」に同じ。*言経卿記-天正一八年〔1590〕一一月二六日「四条殿嫁娶之儀大略相調了。あつかひ人より一筆有㆑之」*虎明本狂言・禁野〔室町末~近世初〕「上下ぬがせ、あつかひ人なにもとりてやるなり」*随筆・守貞漫稿〔1837~53〕四・上「甲乙の名主一席、甲の方一席、乙の方一席、又あつかひ人と号け、甲乙の間に入て謀㆑之者一席」
あつかいて【扱手】〔名〕(「手」は、人の意)(1)中に立って物事の処理にあたる人。仲裁人。仲だち。あつかい人。*羅葡日辞書〔1595〕「Aduocatus 〈略〉クジサタノ サバキテ atçucaite (アツカイテ) トリアワセテ」*狂言記・禁野〔1700〕「こなたそこへよい時分に出て、あつかいてになって、あいさつなされ」*浄瑠璃・女殺油地獄〔1721〕上「互に投げかけつかみかけ打あひ打付、あつかひ手なき相手勝負(せうぶ)」(2)物事の世話をする人。管理者。
「あつかいにん」の「辞書」欄には「ヘボン」「言海」とあるので、『和英語林集成』と『言海』の記事も確認しておくことにする。『和英語林集成』においては、1867(慶應3)年に出版されている初版は「ATSZKAI-NIN」、1872(明治5)年に出版されている再版、1886(明治19)年に出版されている第三版は「ATSUKAI-NIN」とローマ字の綴りは異なるが、いずれも「アツカイニン」という発音と思われる語を見出しとし、それに漢字列「扱人」を配置し、「mediator, negotiator, manager」という英語を使って語義を説明している。
1891(明治24)年に印刷出版を終えた『言海』には「あつかひにん(名)|扱人| 争論ヲ和解スル人」とある。
『和英語林集成』(初版・再版・第三版)、『言海』の記事から、幕末~明治20年頃にかけての時期には「アツカイニン」という語が存在したことは確実といってよい。
『日本国語大辞典』は「あつかいにん」という見出しの使用例として、『言経卿記』の天正18年11月26日の記事中にみえる「あつかひ人」、虎明本狂言「禁野」、『守貞漫稿』の「あつかひ人」をあげているのだから、これらの「あつかひ人」は「アツカイニン」を文字化したものとみていることになる。
しかし、改めていうまでもないが、「あつかひ人」の「人」が「ニン」という漢語を文字化したものであるかどうかは「あつかひ人」という文字列からは判断できない。「あつかひ人」が「アツカイニン」を文字化したものであるかどうかわからない、というのは日本語学の基本的な「みかた」といってよい。実際に使われた文字列について、なぜそう文字化しているかということを過剰に追求すると心理主義的な解釈を持ち込みやすいので、そういう追求をしないように学生を指導している。そのことからすれば、ここでやめておくべきではあるが、少しだけ感じることを述べるならば、「アツカイテ」を「あつかひて」と仮名のみで文字化すると、「て」が〈人〉という語義であることがわかりにくくなる、接続助詞「テ」が下接したものと区別がつきにくいという「判断」(心理)はなかったか、と思う。『狂言記』は「あつかいて」と文字化しているから、実際にある、ということになるが、漢字「人」を意味喚起のために使う、ということはあるのではないかと思う。このことは、仮名勝ちに語を文字化するということをもっとよく考えておく必要があることを示唆していると思うけれども、ここではここまでにしておきたい。
そして、もう1つ気になるのは、和語「アツカイ」に漢語「ニン」が下接するか、ということである。明治期には下接していたことが『和英語林集成』と『言海』によって確認できるが、それはどこまで遡れるのか、ということである。
『羅葡日辞書』の中に「アツカイテ」という語が使われていることには注目したい。つまり、16世紀末には確実に「アツカイテ」という複合語が存在していた。そして、見出し「あつかいて」の使用例の中に、「狂言記・禁野」があって、そこには仮名によって文字化された「あつかいて」があり、また「女殺油地獄」には「あつかひ手」があることがわかる。これらは明らかに「アツカイテ」という語を文字化したものと思われる。そうであれば、16世紀から18世紀にかけて「アツカイテ」という語が使われていた。
『日本国語大辞典』の見出し「あつかいにん」はまず「「あつかいて(扱手)」に同じ」と説明をしている。「アツカイテ」と「アツカイニン」の語義が同じであるとすれば、原理的にはどちらか一方の語が存在すればよいことになる。そうはいっても、まず「アツカイテ」という語があって、「アツカイニン」という語が後発し、ある時期には、(どちらが標準的かということはあるにしても)両語形が併用されていた、ということは考えられる。したがって、「アツカイテ」という語があったから「アツカイニン」という語はなかっただろうという推測は粗っぽすぎることになる。しかしまた、併用の可能性はあったとしても、その併用がいつの時期であったかということは日本語の歴史を考える上では大事なことなので、できるだけ確実な「線」をみておきたい。
そうなると、見出し「あつかいにん」の使用例としては、確実に「アツカイニン」を文字化したと思われる例だけを掲げるのがいいのではないだろうか。つまり『和英語林集成』と『言海』の例を掲げる。その他の例は積極的に「アツカイニン」を文字化した例とはみなしにくいので、残念であるが、ここには掲げないというのはどうだろうか。
今回の原稿をまとめていて、さらに気になったのは、『日本国語大辞典』の見出し「にん」は次のように記されていて、「~をする人」という意味の接尾語について記されていないことである。
にん【人】【一】〔名〕(1)ひと。ひとがら。じん。*往生要集〔984~985〕大文四「我見、人見、衆生見者、多堕㆓邪見㆒」*米沢本沙石集〔1283〕一〇本・四「五郎殿ぞ器量の人にておはする」*千代見草〔1710〕上「涅槃経に、法によりて人(ニン)によらざれとは、釈迦如来の遺言也」*落語・化物娘〔1893〕〈禽語楼小さん〉「大抵己(おのれ)の人(ニン)に無い、柄に無い事は頓と出来ません」(2)隠語。(イ)盗人仲間で刑事をいう。〔隠語輯覧{1915}〕(ロ)てきや仲間でしろうとをいう。〔特殊語百科辞典{1931}〕【二】〔接尾〕人数をかぞえるのに用いる。*竹取物語〔9C末~10C初〕「色好みといはるる限り五人」*源氏物語〔1001~14頃〕若紫「御ともに睦まじき四五人ばかりして」*天草本伊曾保物語〔1593〕イソポの生涯の事「ソバ チカウ ツカワルル nininno (ニニンノ) コシャウニ アヅケヲカレ」
「~をする人」という意味の接尾語についての記述があってもよいように感じた。