『日本国語大辞典』をよむ

第112回 アレの名前か!

筆者:
2023年11月26日

日常生活の中で、いろいろな「物」に接する。現代であれば、テレビでいろいろな「物」を見る。ここでいう「物」は具体的な「物」で、言語学では「指示物(referent)」と呼ぶことがある。つまり指し示す物ということだ。

例えば、「ヒザ(膝)」はわかるだろう。では「膝の裏の部分の呼び名は?」と言われると即答できない人もいそうだ。「そんな場所に呼び名があるのか?」とか、「そんな場所を呼ぶことはないだろう」とか、いろいろありそうだが、「ヨホロ」「ヒカガミ」という名前がある。『日本国語大辞典』には次のように記されている。

よほろ 【膕・丁】〔名〕(後世「よぼろ」「よおろ」とも)(1)(膕)膝のうしろのくぼんでいる部分。ひかがみ。うつあし。よほろくぼ。*十巻本和名類聚抄〔934頃〕二「膕 太素経注云膕〈戈麦反 与保路〉曲脚中也」*宇津保物語〔970~999頃〕楼上上「八九ばかりなるをのこご、髪もよをろばかりにて」*栄花物語〔1028~92頃〕月の宴「御髪(ぐし)などいとをかしげにて、よをろばかりにおはします」*温故知新書〔1484〕「膕 ヨウロ」(以下略)

ひかがみ【膕】〔名〕(「ひきかがみ(隠曲)」の変化した語)ひざの後ろのくぼんでいる所で、すわる時にひっこむ部分。よぼろ。うつあし。ひっかがみ。*多識編〔1631〕五「膕 比加加美(二字目の加に濁点あり)」*訓蒙図彙〔1666〕五「膕(くゎく) よぼろ うつあし 俗云ひかがみ」*書言字考節用集〔1717〕五「膕 ヒカガミ 膝後曲処」*白羊宮〔1906〕〈薄田泣菫〉鳰の浄め「伏葦の臂のひかがみ」*歩兵操典〔1928〕第三八「同時に概ね膕(ヒカガミ)を伸はし全く体の重みを之に移す」(以下略)

「ひかがみ」の「語誌」欄には「膝の後ろ側の名称としては、上代は「よほろくぼ」、中古以降は「よほ(を)ろ」が用いられた。室町期になって「ひっかがみ」、近世にその短呼形「ひかがみ」が用いられるようになったが、同時に「ひざのうしろ」「ひざのうら」といった表現も見え始める」とある。

 

『日本国語大辞典』が使用例として掲げている文献をみると、「ひかがみ」の「語誌」欄に記されているように、まず「ヨホロ~」という語形があって、室町時代以降に「ヒッカガミ」「ヒカガミ」という語形が使われるようになったと思われる。しかし、「ヨホロ(ヨボロ・ヨオロ)」「ヒカガミ」いずれの語も現代日本語としてはあまり使われていないと感じる。

『日本国語大辞典』を読んでいると「アレの名前か!」と思うことがある。

すかり〔名〕(「すがり」とも)(1)網のように編んだ、数珠(じゅず)のふさ。また、数珠を入れる網の袋ともいう。*後撰和歌集〔951~953頃〕雑四・一二八四・詞書「ある法師の、源のひとしの朝臣の家にまかりて、ずずのすがりをおとしけるを、あしたにをくるとて」*類聚名物考〔1780頃〕調度部一二・釈教「すがりは網をいふ。すがりあみとも俗に云ふ。珠数を入し網の袋ともに落して置わすれしにや。今も俗に珠数袋といふ物有り」(2)物を入れる網の袋。獲物などを入れるのに用いるもの。また、山伏が法螺(ほら)貝を入れている網袋や磯釣りで使う口元に浮子(うき)のついた網魚籠をいう。*御伽草子・諏訪の本地(神道物語集所収)〔室町末〕「たちよせて、大づなをいくらともなくうたせて、すかりといふ物を、人二三人乗ほどにこしらへて」*咄本・聞上手〔1773〕二度の駈「桃太郎〈略〉こんどは龍宮へでもいって見んと、腰には例の黍(きび)団子、すかりに入れて下げて出る。〈略〉『ひとつください、お供もふそう』桃太郎すかりよりひとつだしへとらせければ」(3)積雪量がきわめて多い所での、雪中歩行用具。大型のかんじき。縦七五~九〇センチメートル、横三五~四〇センチメートルの楕円形に、木や竹を曲げて作る。《季・冬》*随筆・北越雪譜〔1836~42〕初・上「故に冬の雪中は橇(かんじき)・繾(スガリ)を穿(はき)て途(みち)を行」(以下略)

語義(1)は語釈に「ともいう」とあり、はっきりしていない点がありそうだ。(2)の山伏が法螺貝を入れている網袋が「アレの名前か!」で、たしかにテレビなどで見る山伏の法螺貝は、網の袋に入っている。そのことにあまり疑問をもったことはないが、その網の袋に「スカリ(スガリ)」という名前があったことには驚いた。

「物」すべてに名前があるとは限らないが、ふだん気づいていない、意識していない「物」にちゃんと名前があることもある。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。