「獄門島」「八つ墓村」「犬神家の一族」などで知られる横溝正史(1902~1981)は1933(昭和8)年に喀血し、信州諏訪で転地療養をする。昭和13年になると『講談雑誌』の新年号に、「羽子板三人娘」を発表するが、これが「人形佐七捕物帳」シリーズの第一作となり、最終的には180編を発表している。
横溝正史は岡本綺堂(1872~1939)の「『半七捕物帳』を愛読をこえて熟読していた」(「続・途切れ途切れの記」(『探偵小説五十年』1977年、講談社、81頁)ことを自身で述べている。また、横溝正史に捕物帳をシリーズで書くことを進めた乾信一郎は、「半七捕物帳」と、佐々木味津三(1896~1934)の「右門捕物帳」、野村胡堂(1882~1963)の「銭形平次捕物控」を数冊ずつ送ったということがいろいろなところに記されている。
ここでおさえておきたいのはそれぞれの「捕物帳」作者の生年である。
岡本綺堂 1872(明治5)年 半七捕物帳
野村胡堂 1882(明治15)年 銭形平次捕物控
佐々木味津三 1896(明治29)年 右門捕物帳
横溝正史 1902(明治35)年 人形佐七捕物帳
30年を一世代とみることがあるが、その「みかた」でいえば、岡本綺堂と横溝正史の生年はちょうど30年隔たっており、「親子」ほどの隔たりがある。岡本綺堂が身につけているのは、明らかに江戸時代から明治初期の日本語といってよいが、横溝正史が身につけているのは、江戸時代語を承けた明治時代の日本語で、「承けた」は江戸時代語の名残がある、といってもよいだろう。つまりそれは、江戸時代語そのものではない。その「親子」の間に野村胡堂と佐々木味津三が位置する。
「人形佐七」シリーズの第2話ともいうべき、『講談雑誌』の昭和13年2月号に発表された「謎坊主」の冒頭には「俗にいう化政度。––すなわち文化から文政へかけての時代は、江戸文化の爛熟期で、芸苑芸界あらゆる方面に、名人雲のごとく輩出したが、そのなかにあって、いっぷう変わった名人というのは、神田お玉が池の人形佐七」(2019年、春陽堂書店、『完本人形佐七捕物帳』一、20頁、振仮名は省いた)とあり、物語の舞台は、「化政度」(1804~1830)に設定されている。
「人形佐七」シリーズはフィクションであるので、そのように設定されているからといって、「佐七」や「お粂」が文化文政期の日本語を使わなければいけないということはないし、横溝正史がそのようにすることはできないだろう。そのことは、「書き手」と「読み手」との「暗黙の了解」といってよい。これはテレビで放送されるいわゆる「時代劇」でも同様で、「時代劇」に自動車やスマホはでてこない、しかし使われている日本語は、多くの場合、「現代語に少し時代を思わせる語をはさみこむ」という感じであろう。稿者の興味の一つは、「書き手」が、どのような語を江戸時代らしい語としてはさみこみ、それがどのように使われているかというところにある。
1938(昭和13)年4月に発表された、「人形佐七」シリーズ第4話「山雀供養」に次のようなくだりがある。
その手証がねえから弱っているのさ。しかしなァお万、芝の伊予屋の娘の嫁入衣裳が、ズタズタに切り裂かれていたときにゃ、おまえたしかにあの近所で山雀を使っていたね。それから浅草で、若い娘の銀簪が抜かれたときも、おまえは丁度そばにいたそうだ。(『完本人形佐七捕物帳』一、66頁、振仮名は省いた)
「手証」「銀簪」にはそれぞれ「てしょう」「ぎんざし」と振仮名が施されている。この2語について『日本国語大辞典』で調べて見る。
てしょう【手証】〔名〕犯罪などの行なわれた確かな証拠。犯行の現場。*洒落本・青楼昼之世界錦之裏〔1791〕「手しゃうもみねへ事がなんといはれるものか胸でおさめてゐて気をつけなんしな」*歌舞伎・善悪両面児手柏(妲妃のお百)〔1867〕一幕「いくらお庇ひなされましても、手証(テショウ)は上ってをりまする」*くれの廿八日〔1898〕〈内田魯庵〉二「妾だって手証(テショウ)を見たわけぢゃなし」
ぎんざし【銀差】〔名〕銀製のかんざし。*童謡・山の娵御〔1920〕〈藤森秀夫〉「金差・銀差(ギンザシ)もらふた」
「テショウ(手証)」は洒落本と歌舞伎の使用例があがっており、江戸時代に使われていた語であることがわかる。内田魯庵(1868~1929)の「くれの廿八日」の使用例もあがっているので、江戸時代に使われていた語が明治期にも使われていた例ということになる。
一方「ギンザシ(銀簪)」は1920(大正9)年の例があげられているだけで、江戸時代の使用例があがっていない。横溝正史には「銀の簪」というタイトルの作品もある。しかしここでは、「ギンザシ」という語を使っている。横溝正史はどこでこの語に接し、自身の作品で使ったのか、ということが気になる。横溝正史が「半七捕物帳」などを読んでいる時に知り、それを江戸時代の雰囲気をもった語として自身の作品で使ったのか。あるいは草双紙を読んでいて知ったのか、歌舞伎で知ったのか、などいろいろな可能性がありそうだが、現時点ではわからない。
江戸時代に使われていた語がどうやって明治期さらには大正期以降へと継承していくのか、いかないのか、ということは日本語の歴史を知る上で明らかにしておきたいことがらといってよい。「捕物帳」を読むことで、何かヒントが得られないだろうかと思うに至り、「半七捕物帳」から読み始めてみようかと思っている。