『日本国語大辞典』をよむ

第114回 どこから来たのか

筆者:
2024年1月28日

『日本国語大辞典』の見出し「あてん」には次のように記されている。

あてん【阿諂】〔名〕他人にこびへつらうこと。阿諛(あゆ)。阿媚(あび)。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Aten アテン 阿諂」*後漢書-袁紹伝「故九江大守辺譲、英才儁逸、以直言正色、論不阿諂、身被梟懸之戮、妻孥受灰滅之咎

 

「改正増補和英語林集成」とは1886(明治19)年に出版された第三版を指す。「アテン」は1867(慶應3)年に出版された初版、1872(明治5)年に出版された再版においては見出しになっていない。『和英語林集成』第三版は、「アテン」を「Flattery」という英語で説明し、「HETSURAI」(ヘツライ)を「Syn」(Synonym=類義語)としてあげている。

『日本国語大辞典』は「アテン(阿諂)」が『後漢書』で使われていることを示している。『大漢和辞典』は「阿」の条下に「阿諂」をあげ、「へつらふ。諛諂」と説明し、使用例として、『日本国語大辞典』が掲げている箇所をあげている。『後漢書』で使われていることからすれば、「アテン(阿諂)」は古典中国語=古代中国語であるといってよい。しかし、『日本国語大辞典』の見出し「あてん」においては、「辞書」欄がない。つまり、『色葉字類抄』や『節用集』といった古辞書にはみられない語で、かつ『言海』も見出しにしていない語であることになる。しかし、『和英語林集成』第三版は見出しにしている。この見出しは「どこから来たのか」というのが、今回の標題だ。

ジャパンナレッジのオンライン版『日本国語大辞典』の検索で、「範囲」を「用例(出典情報)」にし、「改正増補和英語林集成」を入れて検索をすると、2756例がヒットする。

あんかい【暗晦】〔名〕(「晦」は、「くらい」の意)くらいこと。晦暗。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Ankwai アンクヮイ 暗晦」*淮南子-説林訓「見之明白、処之如玉石、見之闇晦、必留其謀

あんしょう【暗将】〔名〕愚かで無能な将軍。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Anshō アンシャウ 暗将」*李衛公問対-下「明将不法、暗将拘之」

かくしょく【革職】〔名〕(「革」は改める、更(か)えるの意)低い地位に下げること。職を免じること。地位を下げること。免職。免官。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Kakushoku (カクショク) スル」*紅楼夢-二回「即批革職、該部文書一到、本府官員、無喜悦

かっすい【活水】〔名〕よどむことなく流れ動いている水。↔死水(しすい)。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Kwassui クヮッスヰ 活水」*蘇軾-汲江煎茶詩「活水還須活火煎、自臨釣石深清

あんけい【暗計】〔名〕秘密のはかりごと。陰謀。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Ankei アンケイ 暗計」

いよう【胃癰】〔名〕「いかいよう(胃潰瘍)」に同じ。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Iyō ヰヤウ 胃癰」

おんけつじゅう【温血獣】〔名〕「おんけつどうぶつ(温血動物)」に同じ。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Onketsujū ヲンケツジウ 温血獣」

かいも〔副〕(「かいもく(皆目)」の変化したものか)「かいもく(皆目)【一】」に同じ。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Kaimo (カイモ) カタナシダ」

かきゃく【仮脚】〔名〕足の切断部分を補うために仮に作った足。義足。*改正増補和英語林集成〔1886〕「Kakyaku カキャク 仮脚」

上の「アンカイ(暗晦)」「アンショウ(暗将)」「カクショク(革職)」「カッスイ(活水)」は中国の文献と『和英語林集成』第三版のみが使用例としてあげられており、「アンケイ(暗計)」「イヨウ(胃癰)」「オンケツジュウ(温血獣)」「カイモ」「カキャク(仮脚)」は、『和英語林集成』第三版のみが使用例としてあげられている。

「李衛公問対」は唐代末から宋代にかけて、『紅楼夢』は18世紀中頃には成ったと考えられており、蘇軾は11世紀から12世紀にかけての人であるので、「中国の文献」といってもさまざまではある。蘇軾が使った語「カクショク(革職)」は、日本語の中では使われることがなかったのだろうか。もしもそうだとすると、『和英語林集成』を編纂したヘボンあるいは協力者はどこでこの語に接し、どのような必要性を考えて見出しとして採用したのか。 

『和英語林集成』第三版のみが使用例としてあげられている語では、「イヨウ(胃癰)や「カキャク(仮脚)」は医学用語のようにみえる。ヘボンは医師でもあり、『和英語林集成』の初版を出版した慶應3年には、三代目澤村田之助の左足の切断手術を行なったことが知られている。「カイモ」が「カイモク(皆目)」の変化した語であるならば、おそらくは「はなしことば」で使われていた語であろう。そういう「はなしことば」で使われている語も見出しにしているとなれば、いよいよもって、中国の文献での使用が確認でき、かつ日本の文献であまり使用されていない可能性がある漢語が見出しになっているのはなぜか。答えるのが難しい問いであることがわかってはいても、問いかけたくなる。『日本国語大辞典』をゆっくりとよみでてきた疑問について、ジャパンナレッジであれこれと検索してみると疑問が解決できることはもちろん少なくないが、逆に謎が深まることもないではない。それもまた楽しいと思って、『日本国語大辞典』を読み続けるしかない。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。