『日本国語大辞典』をよむ

第49回 変わる地名

筆者:
2018年12月16日

平成11(1999)年から、政府の主導で市町村合併が行なわれた。これは自治体を広域化することによって行財政基盤を強化し、地方分権を推進することなどを目的としたもので、平成17(2005)年前後に最も多く合併が行なわれ、市町村合併特例新法が期限切れとなった平成22(2010)年3月末には一区切りした。

この市町村合併の結果、平成11年に3232であった市町村の総数(市670、町1994、村568)が平成22年には1727(市786、町757、村184)になった。合併なので、実態としての市町村がなくなるわけではないが、市町村名はなくなったり、変更されたりしたことになる。

これは、いわば「人為的な地名変更」であるが、今回話題にしたいのは、自然に地名が変わっていった、ということだ。

あいこう【愛甲】神奈川県の中北部の郡。丹沢山地の東部、相模川の支流中津川の流域にある。古くは「あゆかわ」。補注 「二十巻本和名抄-五」には「相模国〈略〉愛甲〈阿由加波〉」とある。

筆者は神奈川県の出身なので、小学生の頃、神奈川県の市町村名を覚えた。郡名として、「高座郡」「中郡」「三浦郡」「足柄上郡」「足柄下郡」「愛甲郡」を覚え、白地図を塗ったりした記憶がある。この時に「愛甲郡」というのは少し変わった郡名だなと思った。「アイコウ(愛甲)」という語になじみがなかったからだ。後には姓にもあることがわかったが、いずれにしても気になる地名であった。

筆者が最初に勤務した短期大学は、神奈川県の厚木市にあったが、小田急の愛甲石田駅からバスに乗って通っていた。ここでまた「愛甲」に出会うことになり、少し調べてみようと思って、上の『日本国語大辞典』の記事をみて、「そういうことか」と思った。「補注」にある「和名抄」は934年頃に成ったと考えられている辞書であるが、巻五の「国郡部」の「東海郡」の「相模国」の条に、「足上」「足下」「余綾」「大住」「愛甲」「高座」「鎌倉」「御浦」と8つの郡名があげられている。そして「愛甲」の下には「阿由加波」とあり、これは「アユカハ」を書いたものと思われる。ちなみにいえば、「高座」の下には「太加久良」とあって、「タカクラ」と発音されていたことがわかる。この場合などは、地名「タカクラ」に「高座」という漢字をあてていたが、そのうちに「高座」を音読みするようになり、「コウザ」郡となった。その理由は漢字「座」と「クラ」との結びつきが次第にわからなくなったためであろう。「足上」の下には「足辛乃加美」とあり、「足辛」は「アシガラ」を書いたものであろうから、もともとは「アシガラノカミ」と発音されていたことがわかる。「御浦」は「美宇良(ミウラ)」である。

さて、漢字列「愛甲」と「アユカハ」との結びつきもわかりやすいとはいえない。地名の発音「アユカハ」が「強く」て、漢字列を変えさせるか、漢字列の「引きが強く」て、地名の発音を変えさせるか、という「綱引き」がおこる。高座郡の場合は、漢字列「高座」の引きが強かったのだろう。

「アユカハ」は〈鮎が(たくさん)いる川〉につけられそうな名前である。日本全国にたくさんありそうな川の名だ。室町時代頃に編まれたと思われる辞書を見ていると、「鮎」に「アイ」と振仮名が施されていることがある。1604年に出版され、当時の日本語を反映した日本語ポルトガル語対訳辞書『日葡辞書』にも「アイ」という見出しがある。そのことからすると、室町時代頃には「アユ」の他に「アイ」という語形がうまれていた。そうすると「アユカハ」は「アイカハ」となる。室町時代頃だと、語中語尾に位置している「ハ行音」の発音は「ワ」になっていたので、「アイカワ」だ。詳しい説明は省くが、現在「コーホネ(河骨)」と発音している語はもともとは「カハホネ」だった。「カハホネ」が「カワホネ」になり、「カワ」が長音化して「コー」となった。「カワウチ(川内)」が「コーチ」となるのも同じことだ。これと同じ変化がおこると、「アイカワ」は「アイコー」となる。この「アイコー」を漢字で書いたものが「愛甲」ではないか、と推測する。地名が「アイコー」だから漢字列「愛甲」は安定した結びつきを保つ。そうなると、疑問がある。『和名類聚抄』が編まれた時期に地名が「アユカハ」という発音であったとしたら、どうしてその「アユカハ」が漢字列「愛甲」と結びつくのか? 漢字列「愛甲」がでてくるのは、地名の発音が「アイコー」になってからではないか、と思う。ここは謎だ。

しかし、とにかく、もともとの地名が「アユカハ」であったとしたら、その地名は日本語に起こった音韻変化のために「アイコー」に変わり、「アユカハ」が「消えた」ことになる。「愛甲」は筆者とかかわりがあった地名だったので、『日本国語大辞典』の記事も「おっ」と思ったわけだが、このように、自身にかかわりのある地名についての「情報」が得られることもある。

さて、地名と人名とはかかわりが深い。地名がそのまま姓になっている場合もあって、この地域の人はみんな同じ姓だというようなことがある。「アユカハ」が「アユカワ」となり、「アイカワ」となったとすると、この「アイカワ」に対応するのが「相川」ではないかというのがもう一つ思ったことだ。「相川」は姓としてある。人名にはいろいろなアプローチがありそうだが、筆者はどうしても日本語の歴史と結びつけてとらえてしまう。地名や人名からも日本語の歴史を窺うことはできそうだが、そうしたきっかけも『日本国語大辞典』が与えてくれる。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。