『日本国語大辞典』をよむ

第56回 さまざまな類推

筆者:
2019年3月24日

『日本国語大辞典』をよんでいて、次のような見出しに遭遇した。

あどない〔形口〕[文]あどなし〔形ク〕あどけない。無邪気だ。純真だ。また、たわいない。子供っぽい。*古今著聞集〔1254〕二〇・六九六「あからさまにも、あとなきことをばすまじきことなり」*日葡辞書〔1603~04〕「Adonai (アドナイ)ヒト〈訳〉あることを、不注意にも容易に信じたり大きな声で言ったりする、単純な人」*説経節・さんせう太夫(与七郎正本)〔1640頃〕下「さてもあどないづし王や」*狂言記・今悔〔1660〕「さてもさても、人間といふものはあどないものぢゃ。おぢぼうずにばけて、いけんをしたればまんまとだまされて御ざる」*歌舞伎・薄雪今中将姫〔1700〕三「何をあどない事をいやる」*浄瑠璃・八百屋お七〔1731頃か〕中「逢いたい見たい行たいと、形も乱れ気も乱(みだれ)乱れ心のあどなくも」

あどけない〔形口〕[文]あどけなし〔形ク〕(子供の態度、様子などが)無心で愛らしい。無邪気である。することが幼い。わるぎがない。あどない。いわけなし。*洒落本・交代盤栄記〔1754〕「菊その〈略〉此御かたしっぽりとしてあどけなき所ありて娘かたぎなれども、発明なる御かた故、客衆の取廻し能、遊びにうまみ有てよし」*雑俳・柳多留-二三〔1789〕「あどけない商人筆をおっ付ける」*洒落本・傾城買四十八手〔1790〕しっぽりとした手「とかくけいせいはあどけなきをしゃうびすべし」*滑稽本・浮世床〔1813~23〕二・上「あのくれへそらったばけて、あどけねへまねをしたがる者も又あるめへ」*真景累ケ淵〔1888〕〈三遊亭円朝〉一九「お前のやうに子供みたいにあどけなくっちゃア困るね」語誌(1)中世から「無邪気だ」「子供っぽい」の意で用いられていた「あどなし」に、近世後期、「あぢけなし」「いとけなし」などとの類推で、「け」が入り「あどけなし」となったものか。特に、意味的に関連のある「いとけなし」との類推による可能性が高いと思われる。(2)近世後期以降「あどなし」は、文献に例を確認できないことから、中央語としては用いられなくなったものと思われるが、方言では現代でも紀伊半島、四国、南九州に分布している。(略)

「アドナイ」の使用例として、最初に「古今著聞集〔1254〕」があげられ、「アドケナイ」の使用例として、最初に「洒落本・交代盤栄記〔1754〕」があげられていることから考えると、「アドナイ」が先に存在していたことはいえよう。『日本国語大辞典』の「語誌」欄では、「アドナシ」が使われていたが、「アヂケナシ」「イトケナシ」などの語形に影響されて「ケ」が「アドナシ」にはいりこみ、「アドケナシ」をうみだしたとみている。

『日本国語大辞典』は「アドケナイ」の語義を「無心で愛らしい。無邪気である。することが幼い。わるぎがない」と説明している。「アドケナイ」を「アドケ+ナイ」と分解し、「ナイ」は〈無い〉だと考えると、「アドケ」は〈悪気〉というような語義をもった語であることになる。これも類推だ。『日本国語大辞典』の見出しには「あどけ」がある。

あどけ〔名〕(「あどけない」の「あどけ」が分離して、名詞と意識された語か)「あどけが(の)無い」の形で用いられる。わるぎ。邪心。*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・二「仇気(アドケ)の無い、芝居の娘形を摸(うつ)したやうな風なのが」

形容詞「アドケナイ」から「アドケ」が析出されて名詞と考えられたことからすれば、形容詞から名詞がうまれた例ということになるが、いずれにしても、他の語を使った類推が行なわれた結果新しい語がうみだされたことになる。こうした現象を「異分析(metanalysis)」と呼ぶことがある。言語の運用にはこの「類推」が不可欠のものとなっている。「~ナイ」という語形の語の「ナイ」は形容詞「ナシ(無)」を想起させやすい。

えげつない〔形口〕人に度を過ごして迷惑、不快の感じを与えるさま。特に、言い方や、やり方が露骨でいやらしい。ずうずうしく無遠慮である。思いやりがなく残酷である。*父親〔1920〕〈里見弴〉「まアま、ほんまに大い体だんなア。なんで、こない、えげつなうなんなはってん」*卍〔1928~30〕〈谷崎潤一郎〉一五「それにしたかて外に何とかうそのつきやうもあるやないか、あんまりやり方がエゲツない」*家族会議〔1935〕〈横光利一〉「『これは二つ切りの上等でっせ』『二つ切りでも、渋蛇の目やないと油が上手に上ってへんもん』『えげつないこといはんと、とっといとくなはれ』」*千鳥〔1959〕〈田中千禾夫〉三幕「あないに自己本位のえげつない男は、それに値するけえ」語誌(1)語源は不明。好ましくない状態を意味するが、あくが強い味覚を表現する「えぐい、えごい」が、ひどい、残酷という意味で用いられた例が江戸時代にあり、この語に関わるか。また、「いかつい(厳)」から派生したとする考え方もあるが、いずれにせよ「ない」は「はしたない」「せわしない」と同様に甚しいの意である。(略)

「エゲツナイ」からは「エゲツ」を析出したくなるが、「エゲツ」という語はない、ということだ。『日本国語大辞典』にも「エゲツ」という見出しはない。「イクジナシ」は「イクジ(意気地)」が「ナイ」だが、「オッカナイ」は「オッカ」が「ナイ」わけではない。このあたりが、おもしろいといえばおもしろく、難しいといえば難しい。

『日本国語大辞典』の見出し「とんでもない」の「語誌」欄の(4)には次のように記されている。

(4)「とんでもない」の丁寧体は、「とんでもないことでございます」が本来であるが、近時、全体で一語化した表現の「とんでもない」を、「面白くもない」「見る影もない」などの表現からの類推で、誤って「とんでも=ない」と分離させた結果生じた、「とんでもありません」「とんでもございません」の形を耳にすることが増えている。(略)

形容詞「おぼつかない」の「おぼつか」を動詞の未然形と異分析すると、「オボツキマセン」というような語形をうむことになる。

かたじけあり【忝有】〔自ラ変〕(「かたじけなし」をふざけて言いかえた語)かたじけない。恐縮である。*浮世草子・好色由来揃〔1692〕三「かたじけないはふるし。かたじけあるこそあたらしけれと、今様の若男末社まじりに噪き居る所へ」*浮世草子・西鶴置土産〔1693〕一・一「かかるはにふの小屋へのお立寄、かたじけ有といふ物じゃ」*浄瑠璃・賀古教信七墓廻〔1714頃〕三「是れはかたじけ有馬山、ゐなの小笹のちまきの節句」

おふざけは結局「ことばあそび」に繋がるだろうし、立派な言語活動といってよい。人間は言語を使って意思疎通のみをしているわけではない。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。