『日本国語大辞典』をよむ

第75回 西条八十のことば

筆者:
2020年10月25日

1929(昭和4)年に大日本雄弁会講談社から出版された、西条八十の『少年詩集』を読んでいていろいろなことに気づいた。「帽子」という題名の作品は次のように始まる。

―母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?

 ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

 谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。

「帽子」は1975年に『野性時代』に載せられた森村誠一『人間の証明』の中で採りあげられている作品だ。映画化されたこともあり、当時「僕のあの帽子、どうしたでしょうね」は流行語のようになった記憶がある。

『少年詩集』の目次を見ていると「傘とまつだけ」という題名の作品があった。作品には「ジユーマはすきな松茸まつだけの/料理がどうかたべたいと、/手まねをしたが通つうじません」(257頁)とあり、振仮名も「まつだけ」だ。ちなみにいえば「ジユーマ」は作品冒頭に「巴里で名高い小説家」とあるので、アレクサンドル・デュマのことと思われる。

まつたけ【松茸】〔名〕(「まつだけ」とも)(1)担子菌類キシメジ科のキノコ。秋に、各地の主としてアカマツ林の地上に発生する。高さ一〇~二〇センチメートル。傘は淡褐色の鱗皮におおわれ、初め半球状だが、次第に扁平に開き径一〇~二〇センチメートルになる。裏面のひだは密で白い。柄には綿毛状のつばがあり上下ともほぼ同じ太さ。芳香と風味があり食用。学名は Tricholoma matsutake 《季・秋》*拾遺和歌集〔1005~07頃か〕物名・三九六「まつたけ 足びきの山下水に濡れにけり其の火まつたけ衣あぶらん〈藤原輔相〉」*日葡辞書〔1603~04〕「Matçudaqe (マツダケ)」*浮世草子・好色盛衰記〔1688〕三・二「江戸中の松茸(まつタケ)の出初を、八十五両が物を買きり」*俳諧・続猿蓑〔1698〕下・秋「まつ茸やしらぬ木の葉にへばりつく〈芭蕉〉」*小学読本〔1873〕〈榊原芳野〉一「菌に種類多し。松蕈初蕈占治等は秋生ず」(略)

『日本国語大辞典』は「まつたけ」のかたちを見出しとして採用し、「(「まつだけ」とも)」と記している。使用例としてあげられているが、1603~1604年にかけて編まれた『日葡辞書』が「Matçudaqe」を見出しとしていることがわかっている。この見出しは「マツダケ」をあらわしているとみるのが自然だ。

しかし(と逆説的につないでいいかどうか、そこは考えなくてはいけないが)、『和英語林集成』の初版(1867年)、再版(1872年)、第三版(1886年)は、いずれも「マツタケ」をあらわしていると思われる語形を見出しにしている。ところが、1891(明治24)年に完結した『言海』は「まつだけ」を見出しにしている。『言海』を編んだ大槻文彦が「マツダケ」を見出しにした、つまりそれを「普通語」とみなしたことに、大槻文彦自身の言語使用が関わっている可能性はあるだろう。それはそれとして、上のようなことを総合的に考え併せると、少なくとも明治期においては、「マツタケ」と「マツダケ」とが併存していたとみるのが穏当だろう。その「みかた」を一方に置くと、西条八十(1892~1970)が「マツダケ」を使用していたことは当然ということになる。その語形が昭和4年に出版された詩集に使われていることをもって、昭和4年に「マツダケ」が使われていた、と言い切れるかどうか、というところは筆者としてはさらに慎重に考えたい。つまりこの詩集の「読み手」がこの「マツダケ」をどう受け止めたか、ということだ。しかしごく一般的には、これをもって昭和4年の「マツダケ」とみなすだろう。

「傘とまつだけ」に続く「五羽の駒鳥」という物語性の濃厚な作品では、「繁劇な都会」(261頁)、「荒寥として」(262頁)、「轣轆と埃を立てながら」(281頁)など、漢語が少なからず使われている。「轣轆」には「れきろく」と振仮名が施されている。『日本国語大辞典』の見出し「れきろく」には次のようにある。

れきろく【轣轆】〔名〕(形動タリ)車のとどろき。また、そのさま。轆轆(ろくろく)。轣轣。*柳湾漁唱-一集〔1821〕送原士簡奉乃堂赴柏崎旧寓「緑樹城頭望不窮、鹿車轣轆路連空」*将来之日本〔1886〕〈徳富蘇峰〉一一「錐鑿、槓杆、槌鍛の音は蒸気筒の響、車馬轣轆の声と、共に相和して、晴天白日雷鳴を聞くが如くならん」*婦系図〔1907〕〈泉鏡花〉後・三五「早や門の外を轣轆(レキロク)として車が行く」*若い人〔1933~37〕〈石坂洋次郎〉上・一四「怒るやうな、泣くやうなその轣轆の音に」*啾々吟〔1953〕〈松本清張〉一一「予をのせた馬車は人影ない通りを轣轆(レキロク)と走った」*蘇軾‐次韻舒教授寄李公択詩「松下縦横余履歯、門前轣轆想君車

使用例をみてもわかるように、いわば「ばりばりの漢語」といえるだろう。こうした漢語が『少年詩集』で使われているということをどのように「みる」か。しかしまた、『日本国語大辞典』が使用例にあげている石坂洋次郎は1900(明治33)年の生まれ、松本清張は1909(明治42)年の生まれで、ともに明治時代に生まれている。石坂洋次郎は明治の教育を受けたといってよいだろうが、松本清張はそういいにくい。しかし、妙な表現のしかたになるが、ともに「轣轆」という語を使う。そういういいかたをするならば、泉鏡花(1873~1939)もその「轣轆の系譜」に連なることになる。そして西条八十もその系譜に連なっている。

筆者にとって石坂洋次郎は中学生の時に新潮文庫で読んだ『陽のあたる坂道』の作者である。そのため、明治生まれの人であると、はっきり認識していなかった。松本清張はなおさらで、テレビで松本清張を見たりすることがあったので、「同時代の人」と思ってしまいがちだ。「レキロク(轣轆)」は筆者の使う語ではない。そうした意味合いでは、言語使用において、筆者と石坂洋次郎や松本清張とが隔たっていると認識するべきだ。

『少年詩集』はいろいろなことを考えるきっかけとなった。そしてそれを手伝ってくれるのが『日本国語大辞典』だ。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。