『日本国語大辞典』をよむ

第79回 きしる音

筆者:
2021年2月28日

あいだい【欸乃・靄迺】〔名〕(1)舟の艫(ろ)のきしる音。また、船に棹(さお)さす時に掛ける声。転じて、船人のうたう歌。船頭歌。船歌。棹歌。あいない。→おうあい。*了幻集〔1392頃〕春江「帰去来兮波浪嶮。数声欸乃白鴎前」*柳湾漁唱-一集〔1821〕記夢寄致遠「靄迺楼東市橋暁、湖舟陸続送菱来」*嵐〔1906〕〈寺田寅彦〉「夕日にかがやく白帆と共に、強い生生とした眺である。之れは美しいが、夜の欸乃は侘(わび)しい」*柳宗元-漁翁詩「煙銷日出不人、欸乃一声山水緑」(2)木こりのうたう歌。*頤菴居士集「欸乃認帰樵

語義(2)は転義と思われるので、ここでは話題にしない。見出し「あいだい」の語釈末尾の「あいない」「おうあい」も見出しになっているので、それらもあげておく。

あいない【欸乃】〔名〕「あいだい(欸乃)」に同じ。

おうあい【欸乃】〔名〕舟をこぐときにかける掛け声。転じて、舟人のうたう歌。あいだい。*文明本節用集〔室町中〕「★乃 アウアイ 襖靄」(編集部注:★は、偏の上が止で下が矢、旁が欠)*延宝八年合類節用集〔1680〕八「款乃 アウアイ 棹船相応声 字彙」

それにしても、見出し「あいだい」に示されている語義「舟の艪(ろ)のきしる音」「船に棹(さお)さす時に掛ける声」「船歌」はみなかかわりがあるといえばあるが、少しずつ異なることであるといえば、異なる。

「欸乃」の上字「欸」を『大漢和辞典』で調べてみると、「イ」「アイ」「カイ」「ケ」という音をもっていることがわかる。字義は[一][二][三]「㊀しかる。そしる」「㊁なげく」「㊂うらむ声」「㊃しかり。肯定の辞」「㊄相応ずる声」「㊅ああ。しからず。否定の辞」[四]「しかる」[五]「いかる」と説明されている。(編集部注:『大漢和辞典』では本来 [一]~[五] は白地の□に漢数字、㊀~㊅は黒字の●に白抜きの漢数字)『大漢和辞典』では「オウ」という音が認められていない。さて下字「乃」を同様に調べてみると、「ダイ」「ナイ」「アイ」という3つの音をもっていることがわかる。したがって「欸乃」の下字は「ダイ」「ナイ」「アイ」と発音される可能性があったことになるが、それがすべて、いわば「出揃っている」。上字を「オウ」と発音することが『大漢和辞典』では確認できない。

今回この見出しを採りあげようと思ったのは、〈舟の艪のきしる音〉という語義をもつ語がある、というごくごく素朴な気持ちがまずあった。〈舟の艪のきしる音〉が『大漢和辞典』が掲げる字義「うらむ声」のように聞こえるということだろうか。〈舟の艪のきしる音〉が原義で、オノマトペであるのだろうか。もしもオノマトペであるならば、〈舟の艪のきしる音〉が「あい・だい」あるいは「あい・ない」と聞こえるということになる。〈きしる音〉というと、カミキリムシがだすような「キイキイ」とでも文字化しそうな音を真っ先に思うが、舟の艪だからもう少しゆったりとした「アイ・ダイ」「アイ・ナイ」なのだろうか、などいろいろと思い巡らす。「アイダイ(欸乃)」がオノマトペのように感じられてきたりもする。

さて、『日本国語大辞典』が語釈において「きしる音」と説明している見出しは上の「あいだい」を含めて5見出しである。

あつあつ【軋軋】〔形動タリ〕車や艪(ろ)などがきしる音。

きい〔副〕(多く「と」を伴って用いる)(1)堅い物がすれ合って立てる甲(かん)高い音。きしる音、また、きしるような声を表わす語。(2)強く締めたり、ひねったりするさまを表わす語。

きゅう〔副〕(「と」を伴って用いることもある)(1)強くこすったり、おしつけたり、ねじまわしたりした時などにきしる音。また、強くおしつけられて苦しんで出す声などを表わす語。(2)力をこめて動作するさまを表わす。強く。きゅっと。(3)酒などを一息に飲むさまにいう。

じゃりじゃり【一】〔副〕(「と」を伴って用いることもある)小石、砂などが触れ合ってきしる音や砂などを噛んだりした時の音などを表わす語。また、手ざわりのざらざらした感じにもいう。【二】〔形動〕物の上に散った砂などに触れたときの感じを表わす語。

見出し「きしる」はいわば「本家本元」で、オノマトペ「キシ」に「ル」が下接して動詞になった語であろう。同様に「ム」が下接して動詞になった語が「キシム」であろう。

きしる【軋・輾】【一】〔自ラ五(四)〕堅いもの同士が強く触れ合って音が出る。摩擦し合って音が出る。きしむ。【二】〔他ラ四〕(1)堅いものが強く触れ合って音を出す。摩擦して音を出す。また特に、車輪が摩擦で音をたてるほど車を疾走させる。きしませる。(2)物と物とを、すれ合うようにする。音をたててすり合わせる。(3)勢いや数を争うように、触れ合わせる。また、接触して、競い合わせる。(4)ねずみなどが、きしるような音をたてて物をかじる。歯でかじる。

きしむ【軋】〔自ラ五(四)〕物がすれ合う時になめらかにいかないで、きしきし音をたてる。きしめく。

「キシム」「キシル」が「キシ」を含む以上、その「語感」からは離れにくいことが推測される。つまり「キシム/キシル」は「キシキシ」というオノマトペにうらうちされているということだ。

日本語では、艪のきしる音は「ギーギー」とでも表現されそうだ。そうだとすると、日本語ではそのように艪のきしる音を聞くということだ。これを「ききなし」と呼ぶことがある。日本語と中国語とでは、言語が異なるから、同じような音であっても「ききなし」方が異なることがある。もちろん「同じような音」だから「ききなし」が似ることは少なくない。

『大漢和辞典』の「欸乃」には多数の使用例があげられている。つまり、「欸乃」は中国においては、〈艪のきしる音〉などを表現する語として脈々と使われた。しかし、漢詩などを除けば、日本語においては、それほど使われなかったようにみえる。さてしかし、そうなると寺田寅彦はどういう経緯でこの「欸乃」を自身の使用語としたか、そこにさらなる追究課題がありそうだ。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。