『日本国語大辞典』をよむ

第81回 さまざまな「ユウカン」

筆者:
2021年4月25日

ゆうかん【遊観・游観】〔名〕(1)(─する)遊び楽しんで見ること。歩き回って見物すること。遊覧。*霊異記〔810~824〕上・四「縁有りて宮より出で遊観に幸行(いでま)す」*十三湊新城記〔1312~16〕「縦目遊観、曲渚・回汀、千姿万態、莫奇献」*史記抄〔1477〕一二・蒙怙「秦は天下を游観さうとするぞ」*読本・椿説弓張月〔1807~11〕拾遺・附言「ここに遊観(ユウクヮン)するものも、等閑に見過すもの多かりしに」*米欧回覧実記〔1877〕〈久米邦武〉例言「若夫れ各使節、私を以て游観せしは、緊要国に益あることにあらざれば、一一に記入せず」*春秋左伝注-昭公四年「(仲与公御莱書、観於公)私遊観於公宮也」(2)遊ぶために本館から離れた所に建てられた館。別館。*揚雄-羽猟賦序「游観侈靡、窮妙極麗」

上の見出し「ゆうかん」には「遊観」と「游観」と2つの漢字列が添えられている。「遊」字と「游」字とは偏が異なっているので、ひとまずは別の字ということになる。しかし、『大漢和辞典』(巻十一・108ページ)を調べてみると、そこには「遊・游二字の通用は既に久しく、恰も同字の如き観さへ示してゐるので、本辞典に於ては、遊字の熟語は、殆ど皆游字に集め、我が国に於ける特種な熟語のみをここに掲げることとした。我が国に於ては、あそびの意を表はす文字として、遊字を用ひ游字を用ひぬのが通例だからである」と述べられている。つまり中国においては「遊」字と「游」字とは「通用」すなわち通じて使用されていた。しかし、日本においては、そうではない。「そうではない」理由として「遊」が「あそびの意を表はす文字」として認識されていたと述べられている。これをさらにいえば、(はやくから)「遊」と和訓「あそび」とが結びついていたということであろう。こうしたことを考え併せると、「遊観」と「游観」とは(中国において)そもそもあまり違いがなかったということになりそうだ。

ゆうかん【遊閑・悠閑】〔名〕(形動)静かで暇なこと。用事もなく暇で遊んでいること。また、そのさま。*読本・英草紙〔1749〕一・一「今日此馬場殿は遊閑(イウカン)の地なるゆゑ」*自由学校〔1950〕〈獅子文六〉ふるさとの唄「外観的には、ミジメな目に遇っているが、当人の心は悠閑(ユウカン)を極めている」*馬融-長笛賦「於是遊閑公子、暇予王孫」

上の見出し「ゆうかん」には「遊閑」と「悠閑」と2つの漢字列が添えられている。「遊」字と「悠」字はそもそも明かに別の字である。

『大漢和辞典』(巻十一・108ページ)を調べてみると、「遊」字の字義として「㊀あそぶ」「㊁あそび」「㊂をとこだて」「㊃およぐ。くぐる」「㊄うかぶ」(以下略)とある。(編集部注:『大漢和辞典』では本来㊀~㊄は黒地の●に白抜きの漢数字。以降㊅~㊈も同)先ほど述べたように、中国においては「遊」字と「游」字とが「通用」していたので、「游」字の字義も調べておこう。『大漢和辞典』(巻七・107ページ)を調べてみると、[一]「㊀あそぶ」「㊁あそばせる」「㊂うかぶ」「㊃およぐ」「㊄ほしいまま」「㊅出る」「㊆高く飛ぶ」「㊇つくる」「㊈ひろがり」(以下略)とあり、「遊」字の字義と重なる字義も少なくない一方で、重ならない字義もあることがわかる。(編集部注:『大漢和辞典』では本来 [一] は白地の□に漢数字)

同様に『大漢和辞典』(巻四・1061ページ)で「悠」を調べてみると、字義として、「㊀うれへる」「㊁おもふ」「㊂いたむ」「㊃ながい。はるか」「㊄とほい」「㊅ゆったり」「㊆多いさま」(以下略)と説明されている。

「遊」の「㊀あそぶ」(あるいは「游」の「㊄ほしいまま」「㊈ひろがり」)と「悠」の「㊃ながい。はるか」あるいは「㊅ゆったり」とはなにほどか重なり合いがあるといえなくもないが、異なるといえばもちろん異なる。「遊閑」と「悠閑」とは(熟)語を構成している下字が共通している。図式的に示せば「XA」と「YA」ということになる。「X」の字義と「A」の字義とを足したものが「XA」の語義になるわけではないが、これもいささか図式的にとらえればそういうことになる。そう考えると「XA」と「YA」との語義の違いは、上の字「X」と「Y」との違いが担っていることになる。つまり「XA」と「YA」との語義差を説明するためには、「X」と「Y」との違いを明瞭に説明しなければならない。

独立して「X」の字義、「Y」の字義を考えるのであれば、その字義差は説明できる。しかし、別の字と合わさって(熟)語「XA」となった場合は、(熟)語全体の語義によって、「X」の字義が希薄になること、あるいは少し変わることは当然あるはずだ。その結果、日本語では漢語「XA」と「YA」との語義差が明瞭に説明できなくなったら?

それでも「XA」と「YA」とで発音が異なれば、日本語の語彙体系内で語義の似た別の語すなわち類義語として双方が「いきていく」ことができる。発音が同じだったら? 「どちらでもいい」ということになりそうだ。「どちらでもいい」の行き着く先は? 「どちらか一つでよい」となるのが自然のなりゆきに思われる。

ゆうかん【有閑・有間】〔名〕(1)暇のあること。時間に余裕のあること。*欧陽脩-読書詩「古人重温故、官事幸有間」(2)財産があって生活に余裕があり、暇が多いこと。「有閑階級」

ゆうかん【幽閑・幽間】〔名〕(形動)奥深くて静かなこと。静かで落ち着いていること。暗くて静かなこと。また、そのさま。*文華秀麗集〔818〕上・春日嵯峨山院〈嵯峨天皇〉「此地幽閑人事少、唯余風動暮猿悲」*色葉字類抄〔1177~81〕「幽閑 カスカナリ イウカン」*高野本平家物語〔13C前〕四・厳島御幸「上皇は法皇の離宮、故亭幽閑(ユウカン)寂莫の御すまひ、御心ぐるしく御らんじおかせ給へば」*白石先生手簡〔1725頃〕四「深林の下にて、境致は至極幽閑にて、見はらし候処も有之候」*顔延之-秋胡行「婉彼幽間女、作君子室

複数の書き方をもつ「ユウカン」が他にもあった。「有閑マダム」は現在ではあまり使われなくなった語かもしれない。筆者は、池谷信三郎『有閑夫人』(1930年、新潮社)を現在読んでいる。『日本国語大辞典』の見出しは、この「有閑」は「有間」と書いてもよい、そのように書かれることもあった、ということを示している。「有間マダム」や「有間夫人」とあったら「ありま(有間)」という名前の人物のことかと誤解しそうだな、などと思う。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。