『日本国語大辞典』をよむ

第96回 いろいろな空あき

筆者:
2022年7月24日

まず『日本国語大辞典』の見出し「あきどこ」をあげてみよう。

あきどこ【空床】〔名〕(1)掛け物の掛かっていない床の間。何も掛けたり置いたりしていない床の間。(2)だれも寝ていない、あいている寝床。*心中〔1911〕〈森鴎外〉「それはお花の空床(アキドコ)の隣が矢張空床になってゐることであった」

「アキ(空)」を前部要素とした複合語は、基本的に〈あいた~〉〈からの~〉〈使っていない~〉という語義をもつ。「あきいえ【空家】」であれば「人の住んでいない家」、「あきがら【空殻】」であれば「中身のない貝殻。肉のない貝殻」、「あきぐるま【空車】」であれば「荷物や乗客を乗せていない車」である。後部要素によって、「アキ(空)」が具体的にどういう「アキ」であるかが変わるが、それは日常生活の中で当該言語を使っている母語話者にとって、わかりにくいことではないだろう。

今住んでいる所を離れて別の場所に住むことになれば、「自分が住むために、人の住んでいない家をさがす」という「あきやさがし【空家探】」をする。家は人が住んでいるものであるが、「アキヤ(空家)」は「アキヤ」で価値がある。価値があるということは話題になるということだ。

現在であれば、「乗客が乗っていないことを外部に向かって表示する」ためタクシーに「空車札(クウシャフダ)」が出されている。「空車」は「アキグルマ」ではなく「クウシャ」であるが、対義語は「ジッシャ(実車)」である。「賃走中」という表示を出していることもある。タクシーは今、「実車」であるか「空車」であるかを表示することに意味がある。意味がある、というより表示しておかなければ利用者が利用しにくい。潮干狩りで貝を採る。やった、と思ったら中身のない貝殻だった。「なんだ空殻だ」ということになる。ただし「アキガラ」は現在よく使う語とはいえないだろう。

さて、森鷗外の「心中」は「お花」の隣に寝ていた「お蝶」をめぐる話であるが、ちょっと怖い内容なので、ここには粗筋を書かないことにする。「心中」は「川枡と云う料理店での出来事」を描いている。そしてその「川枡」では「この話のあった頃、女中が十四五人いた。それが二十畳敷の二階に、目刺を並べたように寝ることになっていた」とある。この「目刺を並べたように」十四五人の女中が寝ているところに「空床」が2つあることから話が展開していく。鮮やかな描写といってよい。「アキドコ(空床)」という語がいわば「効いている」。

あきだる【空樽】〔名〕中に何も入っていない樽。からだる。*四河入海〔17C前〕一七・一「我が才尽て、ある事は何もない。あき罍を傾たが如きぞ」*浄瑠璃・鑓の権三重帷子〔1717〕上「四斗入の明樽(アキダル)下人に持せ」*福翁百話〔1897〕〈福沢諭吉〉五四「西洋の諺(ことわざ)に空樽(アキダル)の音は高しと云ふことあり」

これだけだと「当たり前」ということになる。しかし、次のような見出しがあることがわかると「なるほど」と思う。

あきだるかい【空樽買・明樽買】〔名〕(再使用のために)あきだるを買い集める職業。また、その人。*塩原多助一代記〔1885〕〈三遊亭円朝〉一五「明き樽買ひの岩田屋久八と申し」

あきだるどいや【空樽問屋・明樽問屋】〔名〕あきだるを、専門に売買する問屋。あきだる買いが買い集めたあきだるを一手に引き受け、これを、酒やしょうゆなどの製造元に売りさばく。*御触書宝暦集成‐二八・宝暦元年〔1751〕一二月「今度明樽商売之儀、古来より致来候者共相願候に付、吟味之上、弐拾人之者、明樽問屋申付候間」

「アキダル(空樽)」を再使用のために買い集める人がいて、それを「専門に売買する問屋」まであるとなると、「アキダル(空樽)」には経済的な価値がある。経済的な価値があるのだから、それをあらわす語があるのは当然ということになる。

かつては、ビール瓶やコーラなどの瓶、日本酒の瓶などは再利用するために、それらの商品を販売している酒屋さんなどで20円とか30円とかで買い取ってくれた。捨ててあった空き瓶を拾って来て、ちょっと洗って持って行くと、いかにも拾って来たとは思ったとしても、買い取ってくれることもあった。「アキビン(空瓶)」にも価値があった。

対義語を考えるのはおもしろい。「アキ(空)X」という複合語は、杓子定規にいえば「X」が〈充塡されていないこと=あいていること〉をあらわしている。Xが充塡されていないこと、あいていることが話題にならなければ、「アキ(空)X」という語は必要がない。例えば、「アキゴミバコ」という語はおそらくほとんど使われることがないだろう。それはゴミを入れるのが「ゴミバコ」の役割だから、「ゴミバコ」が空であることは(もちろんあるが)役割をはたしていないことになる。つまり、粗っぽくいえば空のごみばこにはあまり意味がない。ごみをいれてこその「ゴミバコ」だ。さて実は『日本国語大辞典』には次のような見出しがある。

あきとだな【空戸棚】〔名〕物などを入れていない、あいている戸棚。

語釈は「ごもっとも」であるが、なんともそっけない。これはどこから採集された語なのだろうか。もしも何らかの文・文章の中で実際に使われていた語であるならば、どのように使われたのか、是非知りたい。つまり、その文・文章では、なぜ「アキトダナ(空戸棚)」が話題になったのか、ということだ。一見そっけないような見出しについてもあれこれと考えてしまう。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。