『日本国語大辞典』では見出し「あきらめる【明】」と見出し「あきらめる【諦】」とが並んでいる。発音が同じだから、小型の国語辞書でも並んだ見出しとなる。前者は現代日本語で使わないということはないが、よく使うというわけでもない。『新明解国語辞典』(三省堂)は、1972年に出版された初版から2005年に出版された第六版まで前者の「あきらめる【明】」を「老人語」と位置づけていた。初版において「老人語」は「すでに青少年の常用語彙(ゴイ)の中には無いが、中年・高年の人ならば日常普通のものとして用いており、まだ文章語・古語の扱いは出来ない語」と説明されている。
『朝日新聞』の記事に検索をかけることができるデータベース『朝日新聞クロスサーチ』を使って「明らめる」で1985年以降の期間に検索をしても3件しかヒットしない。このことからすると、すでに「文章語・古語」にちかいといってもよいのかもしれない。
『日本国語大辞典』は「あきらめる【明】」の語義を「(1)(心を)明るくする。晴れやかにする。さわやかにする」「(2)明らかにする。はっきり見定める。事情などを明白に知る。判別する」と説明し、「語誌」欄で「中古には「言ふ」「聞く」などと複合する例が多く、事情を明らかにする意味になる。この明らかにする意味が中世・近世へと続き、複合語にも「問ひあきらむ」「あきらめ知る」などがある」「この意は文語的表現の中で現代まで続き、抽象的な意味の語を目的語とする。口頭語の世界では、近世になると「…と、あきらむ」の形をとって心にはっきり決める、迷いを断ち切るという意を表わすようになり、さらに目的語を明示しない形で「断念する」ことをいう現代の「諦(あきら)める」につながっていく。→あきらめる(諦)」と補足説明をしている。
つまり、「アキラメル(明)」には〈明るくする〉という語義とともに〈はっきりとみさだめる〉という語義があり、それが〈はっきりさせて迷いをたちきる〉という語義に転じ、〈断念する〉という語義になった、ということだ。
もともとは同じ語であっても、語義が異なってくるとあてる漢字が変わることがある。あてる漢字を変えることによって、語義が異なることをはっきりさせるといってもよい。漢字が違うと語も違うように感じるのは、自然に漢字によって語義を理解しているからだ。
さて、何かを断念するためには、いろいろなことをはっきりさせなければならない。はっきりしているからこそ判断ができて、やめておこうか、ということになる、ということだ。これは重要なことで、正しい、適切な「情報」がきちんと揃っているから、「判断」も適切にできるということになる。そうでないと、雰囲気で決めてしまうことになる。マスクで新型コロナウイルスをどのくらい防げるのか、マスクの材質はどの程度そのことにかかわってくるのか、そういう「情報」を得て、はじめて判断ができる。〈明るい〉ということが〈知る〉〈判断する〉ということとかかわっていることもおもしろい。
「シル(知)」ということも同じようなことだ。自身がどこまで知っているか、どこからは知らないか、ということがわかっていることが知っているということだ。知らない人に限って、なんでも知っているようにふるまう。「知っている人」は「それは知りません」と言う。
筆者が最初に教壇に立ったのは神奈川県の短期大学だった。筆者も二十代後半で、若く経験もなかった。授業を行なっていて、「ここまでは説明できますが、ここから先は説明できません」と授業で話した。それは、現在の研究ではそこはまだ定説を見ないから、というつもりだったのだが、学生のリアクションペーパーに、「先生は説明できないと言うことが多い。もっとちゃんと予習してから授業をやってください」というようなことを書かれてしまった。よほど頼りなく見えていたのだろう。予習が大変なんだろうが、授業なんだから、しっかりやれ、という励ましのことばだったのかもしれない。そう思いたい。しかし、それも今となれば懐かしい思い出だ。
辞書で隣り合わせている見出しは多くの場合は「無関係」で、その「無関係」ぶりがおもしろいということを話題にしたこともあるが、今回話題にした2つの「アキラメル」は現代日本語の感覚では「無関係」にみえるが、実はもともとは同じ語であった。日本語には同音異義語が多い、といわれることが少なくない。同音異義語は、元来は中国語で、それを日本語が借用している「漢語」に多い。もともとは発音が異なり、同音ではなかったが、日本語に借用されて発音が同じになった。もともとある純粋の日本語=和語で同音異義語はそれほど多くはない。だから今回採りあげた語のように、無関係にみえる語でも、遡ると同じ語であることがある。隣同士の関係は? などと推理しながら辞書をよむのもおもしろい。