先日、永田町で講義をしてきた。主催はEUIJ早稲田(1)。もともと教育関連の議員さん対象の講義だったのだが、政局がこのような具合なので不調。議員さんの活動を支える方々対象の講義となった。内容は、OECDやEUの教育施策について、日本やフィンランドの取り組みを通じて概観するというもの。これはPISAの背景事情の概観でもあるので、今回は講義のサワリを再構成して紹介することにしよう。
PISAは「各国の子どもたちが将来生活していく上で必要とされる知識や技能が、義務教育修了段階において、どの程度身に付いているかを測定することを目的としている」(2)。要するにPISAで測定する「学力」とは「生きる力」ということだ。
なぜ「生きる力」が「学力」ということになったのか?
従来、どの国においても(少なくとも先進国においては)「学力」といえば「学問的な力」を意味した。「生きる力」という発想もあるにはあったが、「学問的な力」の副産物程度のものと考えられていた。「学問的な力」を身につけるには、まずは基礎知識を積み上げなければならない。だから、特に義務教育段階においては、より多くの知識を覚えこむことが「勉強」であり、覚えこんだ知識の量が「学力」だったのである。
ところが、1980年代から90年代にかけて状況が大きく変わった。どの国の社会も、少子高齢化、在留外国人の増加、価値観の多様化などによって激変した。世界も、冷戦構造の崩壊、グローバル化とローカル化の同時進行などによって激変した。世界の激変は、各国の社会をますます不安定にする。こうして、どの国の社会も「急激かつ予測不能な変化をするもの」へと変貌したのである。
「急激かつ予測不能な変化をする社会」においては、過去に集積した知識は役に立たなくなる場合が多い。今日と同じ明日が来るとは限らないからである。過去に集積した知識で、現在と未来の問題に対処しようとする姿勢自体が、徐々に時代にそぐわないものになっていった。
ここで学力観の転換が必要になる。このような状況において、学校教育が知識の詰めこみに終始しているようでは、学校と社会がどんどん乖離してしまうからだ。学校で習ったことが社会ではぜんぜん役に立たない。それなら学校でがんばって勉強しても仕方ない――という具合に、「学び」に対する無気力層が拡大してしまうからだ。
「急激かつ予測不能な変化をする社会」においては、知識を多く持っていることよりも、必要に応じて知識を取得できる能力のほうが重要である。また、知識はただ持っているだけでは意味がない。必要に応じて知識を使いこなす能力のほうが重要なのである。
「生きる力」という観点からすると、過去に集積した知識の量が「学力」なのではない。必要に応じて知識を取得し、それを活用する能力が「学力」なのだ。
また、「急激かつ予測不能な変化」に対応するためには、常に学び続けなければならない。学び続ける人こそ、社会がいかように変化しようとも対応できる人材なのである。
「生きる力」という観点からすると、“これまでに何を学んだか”という過去の実績よりも、“これから何を学ぶか”という未来への意欲のほうが「学力」なのだ。
PISAの問題は、すべてこの学力観に基づいて作成されている。たとえば読解力であれば、単純に知識の有無を問うことはなく、テキストに含まれる情報と自分自身の経験とを結びつけて推論を積み重ね、一定の条件下で主張を構成していくことを求めている。まだまだ模索段階ではあるが、この方針は原則として貫かれているのである。
ご存じのとおり、日本の教育においても「生きる力」は重視されている。ただ、日本のように長くて重たい伝統を持っている国の場合、伝統の継承に関わる知識の集積も軽視はできない。“変化に対応する力”も重要なのだが、伝統を継承するために“変わらぬ力”も重要なのである。結局はバランスの問題なのだが、これについてはいずれ回を改めて論じることにしよう。
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(1) 2009年4月、駐日欧州委員会代表部と早稲田大学との協力によって開設された研究交流機関。日本とEUの学生や研究者の相互交流による人材の育成と研究の発展を目的としている。EUIJはEU Institute in Japanの略。
(2) 『生きるための知識と技能3』OECD生徒の学習到達度調査(PISA)・2006年調査国際結果報告書 p003/国立教育政策研究所編/ぎょうせい 2007年