明解PISA大事典

第27回 質問と、フィンランド国語教育の目的 フィンランド紀行7

筆者:
2009年12月11日

フィンランドの日本国大使館に勤務していた時のことだ。現地の小学校を巡るのも、私の重要な仕事のひとつだった。小学校を巡って何をするのかというと、日本についての「楽しい話」をするのである。日本文化を紹介するビデオやら写真やら、日本の伝統的なおもちゃやら、いろいろと小道具を使って、「いかに日本が美しく素晴らしい国であるか」を宣伝するのである。その目的はただひとつ――フィンランドにおいて将来の「親日家」を育てること。この日本政府による壮大なる未来志向のプロジェクト――しかもお金はほとんどかからないプロジェクトのことを「教育広報事業」という。これはフィンランドのみならず、どこの国でも行なわれていたはずだ。また、現在も行なわれているはずである。

そのようにして小学校を巡っていると、だいたいどこでも先生方から「授業を観ていきませんか?」「子どもたちと一緒に給食を食べていきませんか?」などと誘われる。ありがたくお受けする。ただ、私がフィンランドで暮らしていた90年代当時、フィンランドはまだ「学力世界一」などと煽てられてはおらず、また私自身も教育について専門的なことは何も知らなかったので、心を空しうしてフィンランド教育に接する――つまり完全にドシロウトの目で楽しく参観することができた。

ヘルシンキ郊外の小さな小学校で国語(当時の科目名は『母語科』。現在は『母語と文学科』という)の授業を観ていたときのことだ。小学校3年生のクラスだったと思うが、このあたりはあまり記憶が定かではない。なにやらクラス全体で話し合いをしていた。一人の男の子がなにやら意見を言う。それに対して、ほかの男の子が「そんなの絶対におかしいよ」と反論というかイチャモンをつけた。すると、そのイチャモンをつけた男の子に対して、中年の女性の先生が次のように注意したのである。

「『絶対におかしい』じゃなくて『なぜそう思うの?』でしょ。攻撃するのではなく、質問しなさい」

これを聞いて「ほう!」と思った。この場合は教育のドシロウトの目ではなく、外交官の目で見てびっくりしたのである。相手と意見の対立があるとき、攻撃するのではなく、質問をするのは外交対話の基本だからだ。これを小学生のときからやっているとは――興味が湧いたので、授業のあと先生にくわしく聞いてみた。

「意見を言うときには、相手が理解できるように納得できるように話しなさいと教えているのだけれど、実際には言うほうも聞くほうもいろいろでしょう? どんなに自分で分かりやすく話したつもりでも、相手には通じないことはいくらでもある。だから、相手の言っていることが『絶対におかしい』とか『ぜんぜん意味が分からない』と思ったときには、そう言って攻撃するのではなく、『なぜそう思うの?』、つまり『いまの説明だけでは自分にはよく分からなかったから、なぜそう言えるのかをもっと詳しく教えて下さい』と質問しなさいと教えているのです。これは教師についても同じこと。子どもが意見を言って、『絶対におかしい』と思うことは多々ありますが(笑)、必ず『なぜそう思うの?』と質問しなければならないのです」

この説明を聞いて、改めてびっくりした。平明な言葉で語ってはいるが、前回紹介した言語の力にまつわる「無限のループ」を意識していなければ、たぶんこのような指導方法にはならないからである。

ただ、当時は私はただの外交官であり、教育のドシロウトであったから、「まあ、そういうすごい先生もたまにはいるのだろう」という程度にしか考えていなかった。だが、後に私も少しは教育のことを勉強し、さらにフィンランドの国語教育について勉強するうちに、それが決して例外的なものではないことが分かってくる。

フィンランドの国語教育のトップに位置する方々と2005年に鼎談したときのことだ。トップの一人はフィンランド教育庁(1)のピルヨ・シンコ(2)さん。もう一人はフィンランドの国語教科書を30年以上にわたって作ってきたメルヴィ・ヴァレ(3)さんである。どちらも現在のフィンランドの国語教育を作り上げてきた立役者ともいうべき、すごいおばさんである。そのおばさんたちによれば、フィンランドの国語教育の第一の目的は――

「まず基本的な読み書きを身につけさせることねえ。最近は単に『読む』『書く』『聞く』『話す』だけではなく、『見る』とか『表す』とかも加わってきたけれど……」

そして、それができるようになったら――

「世界中のどこのだれが相手でも、その言いたいことを理解して、世界中のどこのだれが相手でも、自分の言いたいことを理解させる力をつけること、でしょうね」

まるで国民全員を外交官に育てるような教育である。フィンランド教育のこの点に関しては、いまだに「すごい!」と思っている。

* * *

(1) 日本では「国家教育委員会」などと訳されているが、これは英語名「National Board of Education」からの訳語。フィンランド語では「Opetushallitus」。教育政策の決定機関である教育省(Opetusministerio)の下で、執行機関として機能する。「省(ministerio)」の下の役所(hallitus)なので、「教育庁」という訳語のほうが適切だと思われる。

(2) Pirjo Sinko。教育庁の国語担当の専門官(Opetusneuvos)。彼女の場合、日本でいえば文科省の国語科の視学官と教科調査官を合わせたような地位に相当する。

(3) Mervi Ware-von Hedenberg。元ヘルシンキ大学付属小学校教諭。昨年、最高の教育者に贈られる「シグネウス賞(Cygnaeus-palkinto)」を受賞した。

筆者プロフィール

北川 達夫 ( きたがわ・たつお)

教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

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