「知識を有すること」と「クリティカルに読むこと」の二者は本来は対立的なものではないのだが、指導においては意外にバランスをとるのが難しい。
作者や作品の背景について何も知らぬまま、その作品についてクリティカルに論じたところでなんだか空しい。底の浅い議論にしかならない。だが、その「底の浅さ」を嫌って、まずは「きちんと読めること」を重視して精読を励行し、ついでに知識の注入も十分に図ろうとすると、クリティカルに読む時間がなくなってしまう。さらに、「きちんと読めもしないし、ロクに知識もないくせに、クリティカルに読むとはナマイキな」という感情的要素が加わると、いつまでたってもクリティカルに読むことは始まらない。どのくらいきちんと読めて、どのくらいの知識があれば、クリティカルに読んでもナマイキではなくなるのかが判然としないからだ。
PISAが「知識を問うテスト」ではないことを売り物にしているのは、これまでに何度もふれてきたように学力観の転換を示すものである。とはいえ、当たり前のことではあるが、まったく知識ゼロの、さっき生まれてきた赤ン坊のような状態を想定しているのではなく、15歳の人間であれば当然有するであろう知識の存在は前提とされている。
ただ、国際テストという性質上、その「当然有するであろう知識」の想定レベルは、どこの国の国内テストと比べても低いものに設定せざるをえない。同じ15歳であっても国が違えば、何についてどのくらい知っているかのレベルは大きく異なるからだ。特に読解力のように、それぞれの言語文化に依存する部分が大きく、数学や科学とは異なり国際的なきまりごとのほとんどない分野においては、「当然有するであろう知識」の想定レベルはどんどん下がっていく(1)。
フィンランドで教科書執筆者として有名なメルヴィ・バレさん(2)は「PISAの読解力の問題は悪くはないが、国語の問題としてのレベルは低いと思う」と述べている。「あの程度の問題なら、フィンランドだったら小学校4年生か5年生あたりを対象にすると丁度よいくらいではないか」というのである。
なにやら傲慢な発言のようにも聞こえるが、PISAの発問形式はフィンランドのそれとほとんど同じであり、素材文を読み解くのに背景知識は必要ないとなれば、確かに小学生でも十分に対応可能であろう。逆に、PISAの発問形式と日本のそれは大きく異なり、素材文や発問のウラに思いを馳せなくてもよいとなると、日本では15歳の子どもはもちろんのこと、大人であっても戸惑ってしまうのは当然だろう。
このような背景があるために、PISAの読解力の問題を「クリティカルに読む」授業のお手本にしてしまうと、いろいろと困難に直面することになる。前回もふれたように、「文中から根拠さえ挙げられれば、どれほど素頓狂な解釈をしてもいい。どれほど非常識な意見を言ってもかまわない」という方向に進んでしまうことさえある。PISAの読解力のように知識を極小化して、テキストから得られる情報のみを頼りにしてしまうと、なんだか空しく、底の浅い議論になってしまうのだ。
では「知識を有すること」と「クリティカルに読むこと」のバランスは、どのようにとっていけばよいのだろうか? 次回は、この点について、フィンランド国語教育の解決策を紹介することにしよう。
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(1) とはいうものの、欧米の文化に関わることについては、少なくとも日本人からすると相当に高度な知識の存在を前提としているように感じられる。欧米寄りのグローバル・スタンダードという、経済外交ではありがちなことではあるが、とりあえずは「不公平だ」と主張し続けたほうがよいのではないか。この問題については第2回を参照⇒「第2回 PISAはグローバル・スタンダードなのか?」へ
(2) メルヴィ・バレさんについては第27回の注を参照⇒「第27回 フィンランド紀行7」の注へ