前回、フィンランドの「喚起・共有・探求」型授業について紹介した。OECDのPISAの関係の偉い人たちは、このような授業形態を「学習者中心型」ということで推奨している。だが、これをこのまま「型どおり」踏襲すると、致命的な欠陥のある指導法になってしまう。
当たり前のことであるが、「学習者」がまったく知らない事がらについては、この指導法はまったく機能しない。まずは何らかの手段で基礎知識を注入するしかないだろう。また、ちょっと別の問題ではあるが、この指導法は学習者に意欲と関心がなければ、まるで機能しない。意欲と関心を持たせるのが指導者の役目と言ってしまえば、それまでのことではあるのだが……。
指導法そのものにも、このままでは機能しえない欠陥がある。基本的な発問は「学習者が何を知っているか?」「学習者が何を知りたいか?」「学習者が何を調べたか?」であるが、このように並べてみると明らかなように、最初から最後まで「学習者」の視点しか存在しないからだ。指導者がうまく誘導するか、適当に知識を注入するかしないと、学習者は知識を体系的に身につけることができない。その意味では、同じく前回紹介した、説明文の指導事例のほうが「型」としては現実的である。説明文が基礎的な知識を体系的に注入する役割を果たしてくれるからだ。ただ、それでも指導者がうまく誘導しないと、学習者は自分の枠の中でしか知識と向き合えなくなってしまう。
知識基盤社会においては学習者中心型の学びが必要なのだろうが、何もかも学習者に丸投げしてはマズいのである。もちろん、その程度のことは職業的な指導者であれば重々承知しているのだろうが、フィンランドでも承知していない職業的な指導者がたまに存在するので注意を要するのである。
第12回と第13回で述べたように、これからの時代は知識基盤社会であり、内部情報(自分の知っていること)と外部情報(他者の知っていること)の統合による「創造的問題解決」の能力が必要とされる。内部情報と外部情報を統合しなければならないのだから、創造的問題解決においても内部情報、つまり自分が持っている知識の質と量は重要である。ところが、PISAの「知識を問うテスト」ではないという売り文句のためか、いわゆる「PISA型の授業」というと、「絶対に知識注入という要素があってはならない」という印象があるようだ。また、いわゆる「PISA型読解力」というと、「文中から根拠さえ挙げられれば、どれほど素頓狂な解釈をしてもいい。どれほど非常識な意見を言ってもかまわない」という印象があるようだ。公開されたPISAのサンプル問題が、その印象をさらに強める効果を発揮していることも否めない。
当初のPISAショックもフィンランド崇拝も薄らいできた昨今、「PISA的なもの」に対するアレルギーというか拒絶反応が強まってきたように感じられる。
さて、どうしたものか。次回以降に考えることにしよう。