ことばの研究者は、一般に、あることばがどこまで古くさかのぼれるかに関心を持ちます。新しいと思っていたことばに、意外に古い用例が見つかると、うれしくなるものです。
でも、辞書のためにことばを集める場合は、どこまで新しい用例が見つかるかも重要です。特に、『三省堂国語辞典』は同時代のことばを重視する辞書ですから、見出しに立てたことばが今の時代に生きて使われているかどうか、よく確かめる必要があります。
「BG」(ビジネスガール)のような時代色の濃いことばは、もう使わないことが、わりあい簡単に分かります。『三国』では、1982年の第三版ですでに削除しています。一方、むずかしい漢語の扱いには頭を悩ませます。たとえば、「幽邃(ゆうすい)」ということば。〈人里を はなれ、しげった木立にかこまれて、ものしずかなようす〉という意味であり、『三国』には初版以来載っています。これは、今でも使うことばでしょうか。
私の手元にある「幽邃」の用例のほとんどは戦前のもので、夏目漱石・室生犀星・志賀直哉らが使っています。戦後はどうかというと、文学作品で確認できた一番新しい例は、谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」(1961)の次の例です。
〈境内ノ幽邃ナコトハ真ニ五子ノ言ニ背カズ、前ニモ二三度杖ヲ曳イタコトハアルガ、コレデモ大都会ノ市内カト驚クバカリ。〉(『谷崎潤一郎全集 第十九巻』1982 p.143)
現代語の例と言うには、少し古い感じです。そこで、『三国』初代主幹の見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)のカードを参照すると、水上勉「弥陀の舞」の例がありました。
〈この伝説も、天につきぬける巨木となった大杉の、幽邃(ゆうすい)な神域に身を置いていると、信じられない話でもない。〉(『週刊朝日』1968.3.8 p.91)
先の例より約7年新しくなったわけですが、これは現代語の例といえるでしょうか。谷崎は近代の文学者という感じですが、水上作品は現代文学として読まれています。このことをもって、「幽邃」が『三国』に載る理由とみなしてもいいでしょう。
ただ、欲を言えば、より新しい例を見つけたいところです。各新聞社の記事データベースでは、最近の例も少しは出てくるのですが、美術展のタイトルに使われた例などで、全体に地味な印象です。「幽邃」がごく最近の文学作品などに使われた例が見つからないものかと思って、注目しています。どこかで目にされた方は、どうぞお知らせください。