タイプライターに魅せられた男たち・第155回

山下芳太郎(10)

筆者:
2014年11月6日

1906年5月2日、若槻次官一行は奉天を出発し、下馬塘を経由して安東県へと向かいました。この時、山下たちが乗った安奉鉄道は、軌間2フィート半(レール間の幅が762mm)の単線で、日露戦争中に帝国陸軍が引いた軽便鉄道でした。路盤の管理も不十分で、実際、山下たちの乗った列車は、途中で脱線事故を起こしました。脱線したものの転覆はしなかったため、ケガ人などは出なかったものの、それでも、安奉鉄道では脱線は日常茶飯事らしく、危険な鉄道であることは間違いないようでした。

5月6日、安東県を出発した一行は、平壌で朝鮮統監府の木内重四郎と金山尚志の出迎えを受け、そのまま合流して京城に向かいました。京城で一行は、慶雲宮に参内し、統監府を訪問し、さらには酒宴に明け暮れたわけですが、ここで山下は、朝鮮語の書字について、その一端を知ることになりました。

日本語では、たとえば「石」という漢字には、「イシ」という読みと「セキ」という読みがあって、それぞれ「訓読み」「音読み」と呼ばれています。一方、朝鮮語では、「石」を意味する語は、「」(ドル)という音の語と、「」(セク)という音の語があります。ただし、朝鮮語では、「」という音に対しては「石」と書きますが、「」という音に対しては、朝鮮オリジナルの漢字である「」を用いていました。つまり、朝鮮語で使う漢字には、「訓読み」にあたる考え方はないのです。「石」という漢字の読みは「」しかなく、「」という漢字の読みは「」しかないのです。それに加え、大韓帝国の公文書は、漢字ではなく諺文(ハングル)で書かれている、とのことでした。形と音とが乖離している漢字を、無理をしてまで朝鮮語の書字として使うのをやめ、朝鮮語の音をそのまま表すことができるハングルを書字に採用すべきだ、と大韓帝国は考えたのです。ただ、それもここ10年ほどのことであって、まだ完全に民衆全体に浸透したわけではなく、特に、氏名をハングルで書くことについては、まだ根強い抵抗が残っているようでした。

京城を出発した一行は、釜山港から壱岐丸に乗り込み、5月11日、下関港に帰朝しました。約4週間に渡った山下の満洲・朝鮮への随行旅行は、ここに終わりを告げました。西園寺と山下は、5月12日は大阪、5月13日は名古屋、と視察を続け、東京に戻ったのは5月14日の夜遅くでした。

山下芳太郎(11)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。