南満洲鉄道株式会社の設立、それが、満洲・朝鮮の視察をおえた西園寺の決断でした。満洲における日本の権益を考えるならば、撫順の炭坑と大連の港をダイレクトに鉄道でつなぎ、さらには、奉天から安東県を経由して朝鮮へも鉄道を通す必要がある、というのが西園寺の結論でした。そのためには、軌間の異なる鉄道をバラバラに経営するのでなく、日本の国策会社である南満洲鉄道株式会社を設立し、レール幅も経営も一本化して、これらの鉄道を運用すべきだというのです。そうすることで、満洲における日本の権益を、より強固にできるというのです。
西園寺に命じられた山下は、大臣や次官との会同(ミーティング)をセッティングしたり、設立委員の内諾を取ったりと、忙しく走り回ることになりました。南満洲鉄道株式会社設立委員会の委員長には、帝国陸軍参謀総長の児玉源太郎を据え、設立委員79人には、若槻礼次郎、鈴木馬左也、片岡直温が含まれていました。ところが、設立委員長の児玉が、1906年7月23日に急死してしまいます。西園寺は、陸軍大臣の寺内正毅に設立委員長を継がせながらも、台湾総督府民政長官の後藤新平に、南満洲鉄道初代総督への就任を打診しました。これを後藤は受諾、11月10日に南満洲鉄道初代総督に就任し、さらに同日、関東都督府顧問と台湾総督府顧問も兼任することになりました。
山下は、西園寺の秘書官として走り回りながらも、満洲・朝鮮への随行旅行の際に京城で見聞きしたハングルのことが、頭から離れませんでした。大韓帝国では、公文書における漢字使用を廃止し、ハングルだけで書くことを目指していました。書字改革という点では、朝鮮語は日本語より「進化」している、と山下は考えたのです。日本語においても漢字使用を廃止すれば、日本語の書字を「進化」させることができる、という信念が山下の中に生まれていました。
では、ハングルと同様のアイデアが、日本語に適用できるのでしょうか。たとえば「石」という漢字に代えて、「イシ」という読みに対してはイとシの合字を、「セキ」という読みに対してはセとキの合字を、それぞれ使って書けばいい、と山下は考えたのですが、さて、日本語の漢字の読みはいったい何種類あるのか、という問題に突き当たったのです。実を言えば、日本語の漢字の「音読み」は高々300種類かそこらなのですが、「訓読み」はそれこそ無限にあります。「音読み」だけを合字で表すのならともかく、「訓読み」を合字で表すためには無限の合字が必要となってしまって、結局、書字問題の解決にならないのです。ハングルの「돌」と「석」のようなわけにはいかないのです。
(山下芳太郎(12)に続く)