山下の説明に対し、スティックネーは不快感をあらわにしました。カナタイプライターの活字やキー配列を設計しているのは、あくまでアンダーウッド・タイプライター社のためであって、他のタイプライター会社に使わせるためではない、とスティックネーは断言しました。この横書きカナタイプライターは、そもそも世界中で使われるわけではなく、日本の、それも山下に賛同する人々の間でしか売れない。そういうカナタイプライターを、複数の会社が作ったなら、共倒れになるのは目に見えている。アンダーウッド・タイプライター社も、他社も、両方ともダメージを受けてしまう。もし山下がレミントン・タイプライター社と取引するつもりなら、アンダーウッド・タイプライター社は、この仕事から手を引かせてもらう、とスティックネーは山下に迫りました。
この頃の山下は、長期間の洋行がたたったのか、かなり体調を崩していました。胃に痛みがあって、食欲が湧かず、日に日に衰弱の一途を辿っていました。スティックネーと交渉しようにも、体力も気力もあまり残っていなかったのです。結局、山下は、カナタイプライターに関して、アンダーウッド・タイプライター社との独占契約を結ぶことを決意しました。ただし、2段シフト42キーと、3段シフト28キーのカナキー配列を、それぞれ関係づけて設計すること、という条件を付けたのです。この条件に対し、スティックネーは、2段シフト42キーは引き受けるが、2段シフトと3段シフトを対応づけるなら、3段シフト28キーは無理で、せめて10キー3列、すなわち30キーは必要だ、と主張しました。その上でスティックネーは、小書きのカナは最上段のシフト側に出来るだけ集める、数字は漢数字ではなくアラビア数字(1234567890)で中段のシフト側に並べる、などの改良案を示しました。そうしなければ、2段シフトと3段シフトの対応づけは無理だ、というのがスティックネーの主張でした。
キー配列の最終決定と、カナタイプライターの製造をスティックネーに託し、山下はニューヨークを離れ、アメリカ西海岸へと帰国の途に着きました。サンフランシスコでは、住友銀行桑港支店への挨拶もそこそこに、1923年1月22日、東洋汽船の天洋丸で、横浜に向けて出帆しました。洋上でも、山下の病状は、悪化する一方でした。何を食べても、胃が全く受け付けず、全て吐き戻してしまい、ほとんど絶食状態となってしまったのです。ふっと、長谷川の小さな柩が脳裏に浮かび、しかし、それを打ち消すかのように、山下は、漢字廃止にかける情熱や、ロンドンでの筆記体の廃止や、カナタイプライターのことなどを、カタカナ横書き文で記し続けました。
カンジ ワ ワガ クニ ノ シンポ ハッタツ ヲ ガイスル モノ デ アル カラ ナルベク ハヤク コレ ヲ ハイシ セネバ ナラヌ.
(山下芳太郎(42)に続く)