山下が太平洋上で病魔に苦しむ中、スティックネーは、カナキー配列の設計を終え、アンダーウッド式カタカナ活字とともに特許を出願しました。カナキー配列は、山下との約束どおり、2段シフト42キーの配列と3段シフト30キーの配列を、それぞれ対応づけて設計しました。ただし、スティックネーは、この特許をスティックネーの単独名義で出願し、譲渡先をアンダーウッド・タイプライター社としていました。活字やキー配列のアイデアには、もちろん山下も関わっていたのですが、山下は洋上にいて特許譲渡契約にサインできません。また、もしも山下に特許の一部を渡すと、山下は他社にもカナタイプライターを発注しかねない、とスティックネーは考えたのです。
1923年2月9日、山下を乗せた天洋丸は横浜に入港、山下は九州帝国大学医学部(旧福岡医科大学)に移され、2月16日に三宅速の開腹手術を受けました。この様子を、3月9日の大阪時事新報は以下のように伝えています。
万国労働会議に資本家側の代表として渡欧した元住友伸銅所長山下芳太郎氏は、帰途英米を経て去る2月9日横浜に帰着したが、ニューヨーク滞在中胃癌となり船中において一層重態となったので、ただちに福岡医科大学へ入院、三宅博士執刀のもとに同16日切開手術を受けたが治癒の見込が立たず、3月中がむつかしいという診断であった。氏は既に充分の覚悟を決めていて、芦屋の自宅に帰る事もせず潔く病室にあって、氏がこの世に残すべき最後の抱負につき各種の方面にわたって口述筆記せしめているが、氏が住友を退いて以来、畢生の事業としていた国字改良、カナガキ宣伝のためにはことに熱心で、カナモジ協会の評議員たる金子恭輔、あるいは星野行則氏をわざわざ大阪から招いて、今後の計画を論じ、その抱負を述べて後事を託した。
3月19日、山下は芦屋の自宅に帰り、4月7日、息を引き取りました。51歳でした。山下の遺言は『カナ ノ ヒカリ』第16号(1923年5月)に掲載され、山下の遺志を継いで「カナモジ ウンドゥ」を続けていくことが確認されました。
1923年7月20日、横浜のドッドウェル商会に、アンダーウッド・タイプライター社から12台のカナタイプライターが到着しました。2段シフト42キーの横書きカナタイプライターです。ただ、そのキー配列をもし山下が見たならば、ホとクが右手にあることに強い難色を示したでしょう。濁音になりうるカナ(カ行サ行タ行ハ行)を、山下は左手に配置したかったはずなのです。しかし、このカナキー配列は、ついぞ山下の目に触れることなく、日本国内にどんどん広まっていったのです。
(山下芳太郎おわり)