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曲のエピソード
世界で最も売れたアルバムとしてギネスブックに認定されている『THRILLER』(1982)からのじつに7枚目のシングル・カット曲。意外なことに、全米チャートではNo.1にならなかった。同アルバムからの全米No.1ヒットは、「Billie Jean」と「Beat It(邦題:今夜はビート・イット)」の2曲のみ。が、プロモーション・ヴィデオ(PV)がTVや街角のスクリーンで流れた回数は、アルバム収録曲の中でもこれが断トツに多いだろう。マイケルが2009年6月25日に亡くなった直後から、日本のTVでもしょっちゅうこのPVを目にしたものだ。この曲を聴けば、十人中十人がPVの映像を即座に思い浮かべるほど、その印象は余りに強烈だった。MTV時代の本格的な到来を高らかに宣言した曲でもある。
1980年代初頭、つまりマイケルが『THRILLER』の制作に取りかかっている頃、彼が「自分を主人公にしたピーターパンの実写版映画をスティーヴン・スピルバーグに撮って欲しい」と切望している、というニュースが漏れ聞こえてきた。が、彼の思いはスピルバーグに届かず、すげなく断られてしまったらしい。マイケルがあくまでも短編映画のようなPV制作に執着したのは、そうした苦い経験があるからではないだろうか。ピーターパンになれなかったマイケルは、自身のPVで狼男からゾンビに変身する魔物に扮して溜飲を下げた。
曲の要旨
真夜中近くの暗闇。かすかな恐怖におののきながら夜道を歩いていると、どこからともなく妖気が漂ってくる。気がつけば、そこはいつもとは違うどこでもないどこか。心を恐怖に鷲掴みにされ、身動きが取れない。と、そこへ忍び寄ってくるのは、この世のものとは思えない恐ろしい魔物の冷たく凍るような手だった…。どこへも逃げられないと悟り、全身を引き裂くような恐怖が走る。そのうち、“thriller(相手に悪寒を走らせる人)”が姿を現し、襲いかかってくる――。
1983年の主な出来事
アメリカ: | 女性初の宇宙飛行士を乗せたチャレンジャー号の打ち上げに成功。 |
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日本: | 千葉県浦安市に東京ディズニーランドがオープン。 |
世界: | フィリピンで反体制指導者のベニグノ・アキノが暗殺される。 |
1983年の主なヒット曲
Down Under/メン・アット・ワーク
Africa/TOTO
Flashdance … What A Feeling/アイリーン・キャラ
Every Breath You Take/ポリス
Say Say Say/ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン
Thrillerのキーワード&フレーズ
(a) thriller night
(b) fight for one’s life
(c) see the sun
(d) be outta time
この曲には苦い思い出がある。曲というよりタイトルに関して。1982年10月、筆者が所属していた三沢米軍基地の日米友好クラブ(Japanese American Friendship Club/略称JAFC)が基地内でハロウィーンのお祭りを大々的に開催した。JAFCはスポーツ・クラブやディスコを併設した娯楽施設内でお化け屋敷を主催することになり、筆者は紙粘土で作られた、頭から血を流す女性の幽霊の首を上げ下げする役目を仰せつかった。重要な役目のドラキュラに扮したのは、長身の白人男性。準備中に、彼とこんな会話を交わした。「確か君、マイケル・ジャクソンが好きだったよね?(注:筆者は6歳の時から12年間、マイケルの忠実なファンだった!) そろそろ新譜が出るらしいって聞いたけど、君、タイトル知ってる?」 もちろん、親しいアフリカン・アメリカン女性から基地内で買ってきてもらったUS誌で、とっくに情報を得ていたので、得意気に教えてあげた。“The name of his new album is THRILLER.”――“Huh? What did you say?”
数分間、このやり取りをくり返した。そのうち、話題はマイケルの新譜のタイトルからすっかり離れてしまい、“thriller”の正しい発音レッスンの場と化した。ああ、口惜しい!“thriller”には、日本人が苦手とする発音がふたつも――[th]の無声音、[r]――が含まれていたのだった! こんなことなら、その発音をもっと練習してくるんだったと思っても、時すでに遅し。でもまあ、そのお蔭で、ものすごーく難しい“thriller”の正しい発音をマスターできたのだけれど。「Thriller」を聴いたりPVで映像を見たりするたびに、あの時のことが脳裏をよぎる。“Say that again!(さぁ、もういっぺん!)”――ドラキュラさんによる、厳しいレッスンだった。
さて、その“thriller”である。(a)が登場するフレーズに、以前から居心地の悪さを感じてきた。何故なら、英語としてちょっとヘンだから。それを言うなら“a thrilling night”もしくは“a thrilled night”なんじゃないの? 何が何でも“thriller”を使いたいのなら、“a thriller’s (または thrillers’) night”じゃないと、どうにもこうにもしっくりこない。その謎を解くカギは、PVの中にあった。
みなさんの多くは、「Thriller」のPVをフル・ヴァージョンでご覧になったことがあると思う。曲が始まる前に、マイケルがガールフレンドと一緒に映画館に行きますよね? その際、スクリーンに映し出される映画のタイトルが『THRILLER』。どうやらホラー映画らしく、彼女は客席で目を伏せたり、隣にいるマイケルに思わずしがみついたりする。とうとう我慢できずに、「もう出ましょ」と促す。マイケルは「どうして? 僕は楽しんで観ているのに」と言う。怒って映画館を飛び出す彼女。外に出た彼女に「怖いんだろう?」と笑いながら言うマイケルに向かって「怖くなんかないわよ」と返す彼女。……とまあ、だいたいそんなやり取りが繰り広げられる。
そう、歌詞に登場する“thriller”とは、PVの中で上映されていた映画のタイトルを指していたのだった。例えば、そこを他の映画のタイトルに置き換えて次のような英文を作ってみると解りやすい。
It’s a SAW night! ※『SAW』は2004年にアメリカで公開されたホラー映画
これを訳すなら、「今夜は『SAW』を観に行こう!」とか、「今夜は『SAW』を観て盛り上がろう!」とか、そういう意味になる。よって、マイケルは「今夜は『THRILLER』(という架空の映画)を観てゾクゾクしなくっちゃ!」と言ってるわけ。ただ、そこを理解するためには、PVの存在が不可欠になる。なので、筆者がこの曲を訳した際には、苦肉の策として「今夜は背筋が凍るような夜」と、思い切った日本語にした。「映画」という前提を踏まえて訳すとなると、そこには注釈が必要となってくるし、訳詞がクドくなってしまうから。“a thrilling night”か“a thrilled night”ならすんなり訳せたんだけどなあ……。あくまでも推測だが、マイケルは最初からこの曲のPVに映画館のシーンを組み込むことを想定しつつ、この曲を作ったのではないだろうか? 当時の彼が、映画作りに心を奪われていたことを考えれば、あながち的外れな推測ではないと思う。
(b)は、字面を見ただけでも理解できる言い回し。「~の命を守るために闘う(戦う)」で、いろんな使い方に応用できる。例えば、“fight for one’s rights”と言えば、「~の(~する)権利を勝ち取るために闘う」という意味に。この曲に登場する“you”とは、曲の聴き手であり、不特定多数の人々をも指している。架空の映画『THRILLER』のような恐怖体験をした人々が「命を獲られまいと必死になる」様子を表しているフレーズと解釈していい。
直訳すると原意とちょっとズレてしまうのが(c)。「太陽を見る」。ハテ、これは何を意味しているのか……? 恐怖にがんじがらめにされた“you”は、「この先、太陽を見られるのだろうか?」という危惧を抱く。ここのフレーズを以下のように書き換えてみる。
… if I’ll ever see a brand-new day.(…果たして自分は新しい日を迎えられるのか)
もうお判りですね? “you”は、死の恐怖に恐れおののいているというわけ。魔物や化け物たちに取り囲まれて、「ここで死ぬかも知れない」と本気で思っているのだ。なので、「もう二度と、おてんとう様を拝めないかも知れない(=明日という日を迎えられないかも知れない)」とビクビクしているのである。筆者がそういう境地に陥ったのは、後にも先にも昨年の3・11東日本大震災発生の時。JR藤沢駅に向かう歩道橋の上で、「今、ここで自分は死ぬんだ」と本気で思った。もう二度とおてんとう様を拝めないんだと。今、思い返してみても、身も凍るような恐怖だった。
ネット上に溢れる歌詞によっては、(d)が“be out of time”となっているものもある。マイケルの歌い方は(d)に近く、“out + of”の発音がくっついて[áuţə]となり、ついでにスペルも“outta”になった。英語の決まり文句に“Get outta here!(冗談だろ!、うそつけ!)”というのがあるが、その際、“Get out of here!”などとまどろっこしい言い方は滅多にしない。たいていの場合は“out of”が“outta”になる。“-tta”は、アメリカ英語特有の発音で[ţə]と聞こえる。で、肝心の(d)は、「時間に遅れて、時間切れになって」という意味。ここでは、「自分が足を踏み入れてはいけない場所に入ってしまったと気づいても、もう遅い」という意味で使われている。ああ、怖い。
今では、PVなしのヒット曲なんて皆無に等しい。「新曲を聴くよりもそのPVを先に目にする」ことを当たり前にした曲、それがこの「Thriller」だった。