人名用漢字の新字旧字

第150回 「阴」と「隂」と「陰」

筆者:
2018年1月25日
150nega.png

旧字の「陰」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。新字の「阴」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。また、俗字の「隂」も、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。どうして、こうなってしまったのでしょう。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、阜部に旧字の「陰」が収録されていました。その一方、新字の「阴」や俗字の「隂」は、標準漢字表には含まれていませんでした。昭和17年12月4日、文部省は標準漢字表を発表しましたが、そこでも旧字の「陰」だけが含まれていて、「阴」や「隂」は含まれていませんでした。

昭和21年4月27日、国語審議会に提出された常用漢字表1295字では、阜部に旧字の「陰」が収録されていて、「阴」や「隂」は含まれていませんでした。国語審議会が11月5日に答申した当用漢字表でも、旧字の「陰」だけが含まれていました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、旧字の「陰」は当用漢字になりました。ただし、当用漢字表のまえがきには「字体と音訓の整理については、調査中である」と書かれていました。当用漢字表の字体は、まだ変更される可能性があったのです。

字体の整理をおこなうべく、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。この活字字体整理案では、「陰」を「隂」へと整理することが提案されていました。報告を受けた国語審議会では、昭和22年12月から昭和23年5月にかけて、字体整理に関する主査委員会を組織しました。主査委員会では、ところが、当用漢字の画数を減らす方向で議論が進みました。活字字体整理案で画数が増えてしまっていた「隂」は、「陰」に戻すことになったのです。この間、昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「陰」が収録されていたので、「陰」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。「阴」や「隂」は、子供の名づけに使えなくなりました。そして、昭和24年4月28日に内閣告示された当用漢字字体表にも、旧字の「陰」だけが収録されていました。その後、常用漢字表の時代になっても、旧字の「陰」だけが出生届に書いてOKで、「阴」や「隂」はダメでした。

平成16年4月1日、法務省民事局は『戸籍手続オンラインシステム構築のための標準仕様書』を通達、合わせて戸籍統一文字を発表しました。戸籍統一文字は、電算化戸籍に用いることのできる文字で、当初の時点では、漢字は55255字が準備されていました。この55255字の中に、「阴」と「隂」と「陰」が含まれていたのです。つまり、コンピュータ化された戸籍の氏名には、「阴」も「隂」も「陰」も使えるよう、システム上は設計されているのです。けれども法務省は、出生届には旧字の「陰」しか許しませんでした。

平成23年12月26日、法務省は入国管理局正字13287字を告示しました。入国管理局正字は、日本に住む外国人が住民票や在留カード等の氏名に使える漢字で、「阴」と「隂」と「陰」を含んでいました。この結果、日本で生まれた外国人の子供の出生届には、旧字の「陰」に加えて、新字の「阴」も俗字の「隂」も書けるようになりました。でも、日本人の子供の出生届には、旧字の「陰」だけがOKで、新字の「阴」や俗字の「隂」はダメなのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。