「百学連環」を読む

第1回 はじめに

筆者:
2011年4月8日

これからこの場をお借りして、ご一緒に、ある文書を読んでみたいと思います。今回注目するのは、西周の「百学連環」です。いまではほとんど顧みられなくなった、というより、これからお話ししてゆくように、そもそも目に触れることの少なかった文章です。詳しくは、読み進めてゆく中で述べることにして、読解にとりかかる前に、少しだけ前置きをしてみたいと思います。

この「百学連環」という文書は、明治3年頃につくられたものです。西暦で言えば1870年。いまからおよそ140年ほど前のこと。明治維新と呼ばれる一連の動きによって、江戸幕府が倒れ、明治時代が始まった頃のことです。

先ほど、著者を西周(にしあまね、1829-1897)と言いましたが、実際に書いたのは永見裕という人物でした。ちょっとややこしいのですが、「百学連環」は、もともと西周が私塾で行った講義の記録なのです。その講義を聴いていた永見が、西先生の言葉を筆記したという次第。

この文書、ありがたいことに現在では、活字に起こしたものが『西周全集』(宗高書房)の第4巻に収録されています。ただ、手に入れづらいこともあって、必ずしもよく読まれているとは言えないのが現状です。そこでなんとかしてこの「百学連環」を、改めて読みやすく手に入りやすい形にできないだろうかと思っていたところ、ご縁があってこの場を使わせていただけることになったのでした。

それにしても、どうしてわざわざ140年も前の講義録を、いま読み直そうというのでしょうか。事は学術に関わっています。とりわけ、その全体についてどう捉えるか、どう考えるかという大きな問題です。

目下、学術がどのような状況にあるかということは、例えば、大学のしくみから垣間見ることができます。それぞれの大学は、多くの場合、複数の学部から構成されており、学部はさらに複数の学科に分かれています。学部を例にとると、工学部、理学部、農学部、医学部、薬学部、文学部、法学部、経済学部、教育学部等々、といった具合です。もっと大まかには、理系/文系といった分類や、自然科学/人文学、あるいは自然科学/人文学/社会科学といった分類をすることもあります。

こうした学術の分類は、歴史のなかで生まれたり消えたり、変化してきたものです。でも、面白いことに、現代の私たちにとって、こうした分類は、ともすると最初から、つまり自分が物心ついたときには、すでにそういうものとして存在していたことの一つです。そして、そういうものについて、人はしばしば「どうしてそうなったのか」という来歴を忘れます。来歴が分からなくなると、その必然性も見失われかねません。

もう少し具体的に身近なところで考えてみましょう。例えば、高校の段階で、文系か理系かというコースを選ばされたりすることがあります。そのとき、なぜそんなふうに分かれているのか、不思議に感じたことはないでしょうか。まるで世の中には二種類の学術領域があって、その二つは水と油であるかのように分けられている。誰がいつそんなふうに分けたのか分からないけれど、とにかくそういうものなんだからどちらかを選べというわけです。そして、一旦いずれかを選ぶと、ほとんどの場合、それ以降、選ばなかったほうの領域は縁がないものとして積極的な関わりを持たなくなったりもします(ここで「そんなことはないぞ!」と憤慨された方は、希有な例外であります)。

いずれにしても、私たちは物心ついたときから、すでに学術がいろいろな領域に分かれている状態を当然のことと思って生きています。また、学術が進展するにしたがって、細分化され専門化が進むことは必要があってのことです。ここで問題だと思うのは、いつしかそうした学術全体を見渡してみようという試みがなくなって、学術の全体像というものがあまり顧みられなくなっていることです。しかし、学術に限らず、全体を顧みないまま部分ごとの最適化ばかりに注目しすぎた結果、例えば環境破壊のような問題が深刻化したのはご存じの通りです。

昨今「エコロジー」と日本語で言えば、なんだか環境保護の話のように思えてしまうかもしれませんが、言葉の元来の意味でエコロジカルに考えてみることも必要だと思うのです。つまり、エコロジー(Ökologie)とはドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル(1834-1919)が、生物を考察する上でその個体だけでなく、その生物が周囲にある他の生物や自然環境と取り結ぶ「あらゆる関係」を考慮する試みに名付けた言葉でした。この意味でのエコロジーは「生態学」と訳されますが、いわばそういう意味で個々の学術だけでなく、学術のエコロジーを考慮してみる必要があると思うのです。

今回、「百学連環」に着目してみたいのは、この講義が当時の西欧学術全体を、相互の連関のなかで広く見渡してみようという試みだからでした。もちろん、140年前のものですから、現在とは学術を取り巻く状況やその編成は違います。しかし、これから見てゆくように、学術やその分類の発想自体は、さほど大きく変わっていません。そういう意味で、「百学連環」は、来し方を見直し、現在を見る目を養い、さらには行く末を占うための一つの材料として、うってつけの文書だとも思うのです。

というわけで、前置きはこのくらいにして、次回から読解にとりかかろうと思います。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。