« 人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第1回) - 漢字の現在:南・北の漢字 »

「百学連環」を読む:江戸の「学術」――貝原益軒の場合

2012年 4月 20日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第54回 江戸の「学術」――貝原益軒の場合

 さて、「百学連環」の先を読み進める前に、「学術」という言葉について、ちょっと補足してみます。

 これまでのところ、ご覧のように西先生は、「学術」という漢語を、Science and Artという英語に対する訳語として採用していました。

 他方でこの言葉、古くは『続日本紀』(巻第九)にも見え、古くから漢語として使われていた様子が窺えます。

 今回はそこまで遡りませんが、貝原益軒(1630-1714)の文章と引き比べてみたいと思います。益軒は、江戸前期を生きた儒者。晩年に書いた『養生訓』で、いまでも広く知られていますね。

 彼は、当世風に言えば、江戸の「啓蒙思想家」とでも言うべき存在でした。儒学にまつわる著作はもちろんのこと、歴史書や風土記の類、『大和本草』のような現在でいう博物学書や、『和漢名数』といった辞典、『和俗童子訓』を初めとする教育書などなど、それこそ百学連環の博さを誇る知識人です。

 儒者たるもの、漢文で著述をするのが当たり前だった時代に、一般読者の便宜を考えて、仮名交じりの文章でたくさんの教科書を残してもいます。

 この益軒先生が書いたものに目を通してゆくと、実は、ここでこだわっている「学問」や「学術」といった言葉が頻出するのです。論より証拠。例えばこんな具合です。

道を学ばんと思はば、初学より道に深く志しをたてて、明師に従ひ、良友に交はり、学術を選ぶを主(むね)とすべし〔。〕 学術とは、学びやうの筋を云ふ。学びのすぢ悪しければ、一生つとめても、道をしらず。一たび迷ひぬれば、よき道に立ち帰りがたし。故に、まづ、学術を選ぶべし。

『大和俗訓』

 「学術」という言葉が見えますね。ただし、この「学術」は、西先生の翻訳語としての用法とは少し違っています。「学術とは、学びやうの筋」のこと。学び方の筋道、流儀あるいは素質といったところでしょうか。いまでも「筋がいい」とか「筋が悪い」と言います。

 そういえば、西先生は「百学連環」の中で、「術の字は其目的となす所ありて、其道を行くの行の字より生するもの」と説明していました(第26回)。「筋」という言葉も、筋道であるとか、筋が通るなど、道を移動してゆく趣きがあります。「学術とは、学びやうの筋」という言い方でも、「術」と「筋」とが同義語として意識されているようにも見えます。

 こういうわけですから、益軒先生の言う「学術」とは、「学と術」ではなく、「学の術」なのです。「学ぶための術」という意味ですね。

 彼は、「術」についてもたくさんの言葉を残しています。例えば、「術」をこんなふうに定義します。

人の身わざ多し。其事をつとむるみちを術と云。万(よろず)のわざつとめならふべき術あり。其術をしらざれば、其事をなしがたし。

(『養生訓』)

 これは自分の心身をきちんと世話して、長く生きるための「術」を説いた『養生訓』の一節です。人間の世界には、万の技があるけれど、技を身につけるには術を知らねばならないというわけです。それこそ「蓑をつくり、笠をはる」ことから、医術や学術まで、いかにして術を習得し、よりよく生きるかということを益軒先生は論じます。

 加えて益軒先生は、術を身につけるために必要な素養をこんなふうに述べてもいます。

諸芸をまなぶに、皆文学を本(もと)とすべし、文学なければ、わざ熟しても理にくらく、術ひきし。ひが事多けれど、無学にしては、わがあやまりをしらず。医を学ぶに、殊に文学を基(もとい)とすべし。文学なければ、医書をよみがたし。医道は、陰陽五行の理なる故、儒学のちから、易の理を以て、医道を明(あき)らむべし。しからざれば、医書をよむちからなくして、医道を知りがたし。

(『養生訓』)

 つまり、どんな技や芸を学ぶにしても、「文学」を押さえなければならないという助言です。ただし、ここで「文学」というのは、現代とは意味が違っています。益軒先生のいう「文学」とは、文字通り「文の学」のこと。言葉の学ですね。

 言葉に精通しなければ、言葉で書かれた知識に接して、これを吸収することも覚束ない。医学を修めるにも、とりわけ文学が基本である、という次第です。これはいまにも通じる議論ですね。もう少し先に進むと西先生も、これと似たような議論を展開しますので、その折りにまた、この益軒先生の言葉を思い出すことにしましょう。

 そして、これで最後にしますが、もう一つ見逃すわけにいかない言葉があります。益軒先生は、『大和俗訓』でこう主張しています。

学問の法は、知行の二を要とす。此の二を力(つと)むるを、致知力行とす。致知とは、知ることを極むるなり。力行とは、行ふことを力むるなり。(中略)知を先とし、行ひを後とす。萬のこと先(まづ)知らざれば行ひ難し。故に前後を云へば、知るを先とす。知るを行はん為なり。知つても行はざれば用なし。故に軽重をいへば、行ふを重しとす。知ると行ふとの二は、一を欠くべからざること、鳥の両翼の如く、車の両輪の如し。学問は、知と行と並び進むをよしとす。

『大和俗訓』

 そう、これは第47回「知行とは何か」から読んできた西先生の言葉ともぴったり重なり合う議論なのです。益軒先生もまた、朱子学の発想を下敷きにしながら、このように考えたのでした。余談ながら、彼は最晩年に『大疑録』という本を書いて、朱子学を懐疑的に検討し直したりもしており、誠に興味が尽きない人物です。

 さて、こうして眺めてみると、西先生は西欧の学術を摂取しながらも、他方で伝統的な学問である儒学、朱子学にも棹さしていたことがいっそうくっきりと見えてきます。おそらく「学術」という言葉も、こうした先哲の用法を念頭において使っていたのでしょう。

<< 前回  次回>>

*

◆この連載のほかの回をお読みになる方は⇒「「百学連環」を読む」目次へ

筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

*

【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

2012年 4月 20日