タイプライターに魅せられた男たち・第48回

黒沢貞次郎(1)

筆者:
2012年8月23日
横浜港出立の頃の黒沢貞次郎

横浜港出立の頃の黒沢貞次郎

カナ・タイプライターの祖、黒沢貞次郎は、1875年1月5日、東京の日本橋大門通に生まれました。初等教育を中退した黒沢は、日本橋の薬問屋へ丁稚奉公に出され、そのまま年季明けまで勤めます。1893年、年季明けと同時に黒沢は、横浜港からノーザン・パシフィックの蒸気船で、ワシントン州タコマに向けて、単身、旅立ちました。新天地アメリカで見聞を広めたい、という思いがあったようです。16日間の航海中に、足のケガがもとで生死の境をさまよい、九死に一生を得た黒沢は、それを機に敬虔なクリスチャンとなりました。

アメリカ西海岸に着いた黒沢を待っていたのは、来る日も来る日も続く重労働でした。当初はタコマ周辺の日本人入植地で、芋掘りなどの農作業に従事していましたが、翌年にはシアトルに移り、鮭の缶詰工場で働きはじめました。昼は鮭を缶詰にして、夜は漁船から鮭の水揚げを手伝うのです。移民の黒沢がお金を貯めるには、重労働を続けるしかありませんでした。それでも黒沢は、日曜日や時間の空いた時には、たいていジェファーソン通りの日本人YMCAに顔を出していました。

日本人YMCAには、さまざまな形で、日本の情報が入って来ていました。そこは同時に、黒沢自身が、日本人としての自分を見つめ直す場所でもありました。1894年3月9日、明治天皇の銀婚式を、黒沢たちは日本人YMCAで祝いました。8月に日清戦争が開戦すると、シアトルにおいても、日本人と中国人の間に微妙な緊張感が漂いましたが、それでも1895年2月11日の紀元節には、黒沢たちは日本人YMCAで戦果を祝いました。

そんな黒沢の生活が一変したのは、1897年7月17日、蒸気船ポートランド号がシアトルに到着した時からでした。ポートランド号は、カナダのクロンダイクから、大量の金塊と、採掘者たちを載せて戻ってきたのです。それは、クロンダイク・ゴールド・ラッシュの始まりでした。一攫千金を夢見て、採掘者たちがシアトルに集まってきました。クロンダイクへは、シアトルからスキャグウェイの港まで、蒸気船で海を行くしかありません。そこから陸路で3000フィートの峠を越え、さらにユーコン川を手製のいかだで下るのです。シアトルまでは全米から鉄道が繋がっていますが、そこからは船と陸路なので、船を待つ採掘者たちが、シアトルに溢れはじめたのです。

また、クロンダイクやスキャグウェイは、町が出来はじめていたものの、もともと何もなかったところです。保存食や生活物資は、その大半がシアトルから積み出されました。シアトルの港を発つ採掘者や物資と、シアトルの港に入ってくる金塊とで、シアトルは異様な活況を呈しはじめたのです。

黒沢貞次郎(2)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。