タイプライターに魅せられた男たち・第49回

黒沢貞次郎(2)

筆者:
2012年8月30日

1898年12月、黒沢はニューヨークにいました。狂騒のシアトルを後にして、金採掘者たちとは逆方向に、大陸横断列車で東海岸へと来たのです。ブロードウェイ256番地のエリオット&ハッチ・ブック・タイプライター社に、工員としての職を得た黒沢は、ひらがなタイプライターを開発していました。社長のエリオット(George Crawford Elliott)は、ブック・タイプライター(帳簿に直接印字できるタイプライター)の海外進出を狙っていて、極東の日本にも、ブック・タイプライターを販売展開しようと考えていました。そこで、日本人の黒沢に、日本語を打てるブック・タイプライターを、開発させていたのです。

ひらがな・ブック・タイプライター(Elliott & Hatch Book Typewriter Company、1898年)
ひらがな・ブック・タイプライター(Elliott & Hatch Book Typewriter Company、1898年)

エリオット&ハッチ・ブック・タイプライターは、シフト機構付き41キー(82文字)のタイプライターで、キーを押すと活字棒が下向きに動き、本体下に広げた帳簿の上に印字がおこなわれて、同時に本体全体が1文字分右に移動する、という機械でした。これを黒沢は、ひらがな縦書きに改造することにしました。具体的には、ひらがな活字を、90度回転して使ったのです。この結果、本体が右に動くと、ひらがなの文章が、縦書きで連なっていくようになりました。また、濁点と半濁点を収めたキーは、本体の移動機構と連動しないようにしました。たとえば「ぞ」であれば、濁点の後に「そ」と打つことで、「そ」の右上に濁点が来るようにしたのです。

黒沢は、ニューヨークの日本人会を経由して、あちこちで、ひらがな・ブック・タイプライターを見せて回りました。また、ひらがな・ブック・タイプライターを使って、日本の主だった新聞社や学校に、手紙を書きました。日本への売込も図ったわけです。これらの手紙、すなわち、ひらがな・ブック・タイプライターの印字見本は、東京の『時事新報』や東京高等師範学校の同窓会報で紹介されましたが、必ずしも売上には繋がらなかったようです。

ひらがな・ブック・タイプライター印字見本(『時事新報』1899年9月3日号)
ひらがな・ブック・タイプライター印字見本(『時事新報』1899年9月3日号)

エリオット&ハッチ社から南へ徒歩10分、ウォール街60番地に、日本の在ニューヨーク総領事館がありました。ここにも黒沢は、ひらがな・ブック・タイプライターを持ち込んでいました。日本からニューヨークに来た渡航者は、一度は日本総領事館を訪れることになります。そこで、ひらがな・ブック・タイプライターに興味を持ってもらえれば、すぐ近くのエリオット&ハッチ社も、訪ねてもらえるかも知れません。黒沢の策が効を奏したのか、1900年7月、ニューヨークを視察中の大岩弘平に、ひらがな・ブック・タイプライターを見てもらうチャンスが生まれました。大岩は、逓信省通信局の技師で、電信線や電信局の建設を担当しており、この年の欧米視察も、海底ケーブル敷設技術などの実地調査が主な目的でした。

黒沢貞次郎(3)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。