カナ・タイプライターの祖、黒沢貞次郎は、1875年1月5日、東京の日本橋大門通に生まれました。初等教育を中退した黒沢は、日本橋の薬問屋へ丁稚奉公に出され、そのまま年季明けまで勤めます。1893年、年季明けと同時に黒沢は、横浜港からノーザン・パシフィックの蒸気船で、ワシントン州タコマに向けて、単身、旅立ちました。新天地アメリカで見聞を広めたい、という思いがあったようです。16日間の航海中に、足のケガがもとで生死の境をさまよい、九死に一生を得た黒沢は、それを機に敬虔なクリスチャンとなりました。
アメリカ西海岸に着いた黒沢を待っていたのは、来る日も来る日も続く重労働でした。当初はタコマ周辺の日本人入植地で、芋掘りなどの農作業に従事していましたが、翌年にはシアトルに移り、鮭の缶詰工場で働きはじめました。昼は鮭を缶詰にして、夜は漁船から鮭の水揚げを手伝うのです。移民の黒沢がお金を貯めるには、重労働を続けるしかありませんでした。それでも黒沢は、日曜日や時間の空いた時には、たいていジェファーソン通りの日本人YMCAに顔を出していました。
日本人YMCAには、さまざまな形で、日本の情報が入って来ていました。そこは同時に、黒沢自身が、日本人としての自分を見つめ直す場所でもありました。1894年3月9日、明治天皇の銀婚式を、黒沢たちは日本人YMCAで祝いました。8月に日清戦争が開戦すると、シアトルにおいても、日本人と中国人の間に微妙な緊張感が漂いましたが、それでも1895年2月11日の紀元節には、黒沢たちは日本人YMCAで戦果を祝いました。
そんな黒沢の生活が一変したのは、1897年7月17日、蒸気船ポートランド号がシアトルに到着した時からでした。ポートランド号は、カナダのクロンダイクから、大量の金塊と、採掘者たちを載せて戻ってきたのです。それは、クロンダイク・ゴールド・ラッシュの始まりでした。一攫千金を夢見て、採掘者たちがシアトルに集まってきました。クロンダイクへは、シアトルからスキャグウェイの港まで、蒸気船で海を行くしかありません。そこから陸路で3000フィートの峠を越え、さらにユーコン川を手製のいかだで下るのです。シアトルまでは全米から鉄道が繋がっていますが、そこからは船と陸路なので、船を待つ採掘者たちが、シアトルに溢れはじめたのです。
また、クロンダイクやスキャグウェイは、町が出来はじめていたものの、もともと何もなかったところです。保存食や生活物資は、その大半がシアトルから積み出されました。シアトルの港を発つ採掘者や物資と、シアトルの港に入ってくる金塊とで、シアトルは異様な活況を呈しはじめたのです。
(黒沢貞次郎(2)に続く)