タイプライターに魅せられた男たち・第61回

谷村貞治(1)

筆者:
2012年11月22日
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みちのくの電信王、谷村貞治は、1896年3月19日、岩手県新堀村に生まれました。中等教育を終えた谷村は、盛岡の季村医院へと奉公に出ます。ゆくゆくは奉公先で医者になるつもりだったのですが、新たな医師法の制定により、医者になるためには、医学校を卒業しなければいけなくなりました。しかし、盛岡にあった岩手医学校は1912年で廃校となっており、谷村は、医者ではなく、電信技術者となる道を探り始めます。

1915年の春、逓信養成所の入試を2年連続で落ちた谷村は、東京に旅立ちます。この時は、すぐ岩手に戻ってきたのですが、同じ年の秋、再び東京に旅立ち、東京中央電信局で電信工夫の職を得ます。さらに谷村は、夜学にも通い始めます。ただ、都会で様々なことを学びたかったのか、東京歯科医学校、明治薬学校、神田電機学校、と夜間部を転々とし、さらには神田正則英語学校にも学びます。勉強の甲斐あって、谷村は逓信技手に昇進し、電信技術者としての道を歩み始めました。

1923年9月1日の正午前、関東地方を大規模な地震が襲いました。関東大震災です。谷村は、神田同朋町の自宅に駆け戻り、妻子の手を引いて、不忍池から上野公園に避難しました。しばらくはバラック住まいとなりましたが、小松川町に借間を見つけ、家族で仮住まいを始めました。大震災で、東京の電信網はズタズタになっており、これを復旧しないことには仕事になりません。しかし復旧しようにも、電信線も電信機も、その大半が輸入に頼っていました。そして、その輸入を一手に引き受けていたのが、サミュル・サミュル商会(Samuel Samuel & Company)でした。

横浜に日本本社があったサミュル・サミュル商会も、震災でダメージを受けており、本社機能を神戸に移して再起を図っていました。英語を学んでいた谷村は、電信線や電信機の購入で、たびたびサミュル・サミュル商会と交渉する羽目に陥りましたが、そんな中、思わぬ提案を受けます。逓信省を辞めて、サミュル・サミュル商会に来ないか、というのです。輸入した電信機に不良がないかテストしたり、あるいは電信機そのものを日本向けに改良したり、そういうことのできる技術者で、しかも英語のマニュアルを日本語に翻訳できる人間を、サミュル・サミュル商会は必要としていたのです。

高給を約束されたヘッド・ハンティングに、谷村の心は揺れました。逓信技手の安月給では、生活の立て直しも苦しく、加えてもともと病弱だった妻が、震災後はほぼ寝たきりで、薬代にも事欠く始末です。谷村は、サミュル・サミュル商会への転職を決意しました。

谷村貞治(2)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。