「百学連環」を読む

第110回 学問の大律

筆者:
2013年5月24日

前回までのネガティヴに関する検討を受けて、講義は次のように続きます。

併しなから學問は子カチーフを主として求むるにはあらす。其主とする所は卽ち眞理を求むるにあるなり。譬へは方今は地動の説に歸するといへとも、古昔は天運の説あるか如く、或は日蝕彗星は亂兆なりといひしも、今は其理を發明して決して亂兆にも何にもあらさるを知れり。或は方今は地は圓球なりといへとも、古昔は地は平衍なりとせり。或は大山大川には神ありとせしも、今は其無きを知るか如く、或は政事上に於ても古へ柳子厚の説よりして封建を好しとせしも、今は郡縣の好きを知り、世界一般是に化し、既に我か國も此に及ふか如く、今を知るときは必しも古を知らさるへからす。是を學問の大律とす。

(「百學連環」第42段落第5文~第10文)

 

訳してみます。

しかし、学問では、主としてネガティヴを求めるわけではない。中心は、真理を求めることにある。例えば、現在では、地動説が採られているが、かつては天動説があった。あるいは、かつて日蝕や彗星は世の乱れる兆しとされていたものだが、今ではその理が発見されているので、凶兆でもなんでもないことが分かっている。また、現在では地球は球状であると言うようになったが、昔は大地は平らなものだとされていた。それに、かつて大きな山や川には神がおわすとされていたものだが、今ではそうではないことが分かっている。政治でも、昔は柳宗元の説に従って封建がよしとされたが、今では郡県制のほうがよいとなり、世界的にもそちらへ移行し、我が国もそうなっている。このように、現在を知る場合には、必ず過去についても知らなければならない。これは学問において重要な原則なのである。

消極的(ネガティヴ)に物事を知ることは、積極的(ポジティヴ)に知ることと裏腹である、というのが前回までの指摘でした。とはいえ、学問においてはネガティヴに物事を知ることが中心ではないというわけです。あくまでも目標は、真理を知ることにある。

というので、西先生は過去に真理だと思われていながら、現在では否定されている事例をいくつも並べてゆきます。天動説から地動説へという大きな変化は、分かりやすい例ですね。これは、見ようによっては、真理が時代や状況によって変化する相対的な側面を持っているということを述べているとも読めます。

急いで付け加えれば、だから「絶対的な真理はない」という話ではありません。おそらく、かつて真理と思われていたことが、新たな発見や考え方の転換によって真理ではなかったと認識され、そのネガティヴな(この場合は「否定的」と言いたくなります)理解によって、いっそうの真理へと近づくというところでしょうか。

西先生が挙げている例のうち、柳子厚について少し補足しましょう。柳子厚とは、唐代の文人、柳宗元(773-819)のことです。柳宗元には『封建論』という著作がありますので、西先生はそれを踏まえているのかもしれません。

私自身は、不勉強で『封建論』を見ておらず、判断は控えますが、張翔氏の論考「「天下公共」と封建郡県論――東アジア思想の連鎖における伝統中国と近世日本」によれば、柳宗元は封建制を批判して、郡県制を是としているようです(張翔+園田英弘共編『「封建」・「郡県」再考――東アジア社会体制論の深層』、思文閣出版、2006、85-87ページ)。ここは、『封建論』そのものを見る機会を得てから、改めて西先生の説明と比較してみたいと思います。

さて、最後にまとめとして述べられている「今を知るときは必しも古を知らさるへからす。是を學問の大律とす」についても、少し検討してみましょう。

すぐに思い出されるのは、第51回「日新成功」で述べられたことです。今、直に関係するくだりを改めて現代語で引いておきましょう。

「日新成功」と言われる。日々新しくなることはよいとして、広く過去を知らなければ、日々新たになりようもない。だから、知は広くなければ行いがたいのである。

日新成功のためにも、温故知新、過去を知る必要があると力説されていました。

過去を知る必要はどこにあるのか。ここまでの議論を受けてもう少し深読みしてみたいと思います。ある事柄、目下の文脈では、ある学問において、過去の試行錯誤を知ることにはどういう意味があるでしょうか。その対極には、最新の知識だけ押さえればよく、現在では間違いであることが判明している過去の知識には意味はないという考え方があります。

例えば、私たちが小中高で習う算数や数学は、その最たるものかもしれません。数学の授業で、数学の歴史を教えられることは稀です。いったいどこの誰が、なにを考えて三平方の定理など見いだしたのか。なぜ確率や微分積分という発想が生まれたのか。どういう試行錯誤を経て、現在私たちが知るような数学の姿が生まれてきたのか。そもそもどうして英語の mathematics が「数学」と訳されたのか(mathematicsにはどこにも「数」という意味が入っていないのに)、「幾何」とはどういう意味なのか、などといった歴史的経緯は、数学で教えられませんでした。

その代わり、数学の定理や公式を山ほど覚えて、それを駆使した計算や証明ができるようになるというのが、数学という科目に対する印象ではないでしょうか。つまり、そこには「どうしてそんなことを考えたのか?」という、学問において最も重要であるはずの動機や問いが欠けています。問いや動機を欠いたまま、しかしその成果だけを知り、活用しようというある種の功利主義といってもよいでしょう。果たしてそれで、数学の理解は深まるか、おおいに疑問です。

これは私見ですが、学問の面白さとは、いまだ地球上の誰も答えを出したことのない問いを探究することにあると思います。そして、よく問うためには、学ぶ必要がある。つまり、これまで人類が、或る対象について提出してきた問いやその問いに対して出した答え、そうした試行錯誤の経緯を弁えた上で、そこに何かを付け足してゆくという次第です。学問とは、やはり十分に学び、そして問うことができるというものだと思うのです。

ですから、改めてここで西先生が述べているように、現在を知ろうと思えば、現在をつくってきた過去の来歴をも見知る必要があります。それは、学術の領域を問わずそうなのだと思います。まさに「学問の大律」というべきものでありましょう

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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