人名用漢字の新字旧字

第97回 「針」と「鍼」

筆者:
2015年10月15日

旧字の「鍼」は、「シン」という音を表す「咸」に「金へん」がついた文字で、いわゆる形声文字だと考えられます。新字の「針」は、取っ手のついた「はり」を表す「十」に「金へん」がついた文字で、いわゆる会意文字だと考えられます。旧字の「鍼」は漢の時代より以前から使われていましたが、新字の「針」は南北朝時代(5~6世紀頃)までしか遡れないようです。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、部首画数順に2528字が収録されており、新字の「針」が金部に含まれていました。しかし、旧字の「鍼」はカッコ書きにすらなっておらず、標準漢字表のどこにも収録されていなかったのです。昭和17年12月4日、文部省は標準漢字表を発表しましたが、そこでも新字の「針」だけが収録されていて、旧字の「鍼」は含まれていませんでした。

その一方で、各地の鍼灸按師会は、旧字の「鍼」にこだわりました。鍼灸按師が用いる「はり」は旧字の「鍼」で、羅針盤その他の「はり」は新字の「針」で、それぞれ書き分けることを推奨していたのです。その根拠の一つは、明治44年に内務省が制定した『鍼術、灸術營業取締規則』にありました。この営業規則は、昭和17年のこの時点でも有効であり、そこでは旧字の「鍼」が使われていたからです。

昭和21年11月5日、国語審議会は当用漢字表を、文部大臣に答申しました。当用漢字表でも、新字の「針」が収録されていて、旧字の「鍼」はカッコ書きにすらなっていませんでした。当用漢字表は、翌週11月16日に内閣告示されましたが、やはり新字の「針」だけが含まれていました。

一方、鍼灸按師は、GHQ勧告によって、継続そのものが危ぶまれていました。GHQは、日本の医療改革に際して、鍼灸按師の「治療」を問題視しており、それらの「治療」を禁止する方向だったのです。これに対し、鍼灸按師たちは、厚生省や国会への陳情などあらゆる活動をおこない、昭和22年12月20日に『あん摩、はり、きゆう、柔道整復等営業法』の制定を勝ち取ります。この法律は翌年1月1日に施行、都道府県知事免許としての「はり師」「きゆう師」「あん摩師」がスタートしました。旧字の「鍼」(および「灸」や「按」)を、法律の条文では仮名書きにするという形だったものの、鍼灸按師は身分免許という権利を勝ち取ったのです。

同じ昭和23年1月1日、戸籍法が改正され、子供の名づけは当用漢字1850字に制限されました。旧字の「鍼」は、子供の名づけに使えなくなりました。それが現在も続いていて、新字の「針」は出生届に書いてOKですが、旧字の「鍼」はダメなのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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