出典
韓愈(かんゆ)・雑説(ざつせつ)・四首・其四
意味
いかに才能のある者も、それを認めてくれる人がいなければ、力を発揮できない。「千里の馬」は、一日に千里も走ることのできる名馬。「伯楽(はくらく)」は、もともと星の名で、天上で馬の世話をするのが役目であったというが、転じて馬の素養を見分ける人をいうようになった。この句は漢(かん)の『韓詩外伝(かんしがいでん)』に「驥(き)(=名馬)をして伯楽を得ざらしむれば、安(いずく)んぞ千里の足を得ん」という同じ意味の句があり、『戦国策(せんごくさく)』秦(しん)策にも、孫陽(そんよう)という馬の鑑定人が、名馬に塩運びをさせてしまったという話があり、かなり古くから伝えられていた物語と思われるが、有名になったのは、韓愈(かんゆ)の「雑説(ざつせつ)」からである。「雑説」は、「随想」という意味。
原文
世有二伯楽一、然後有二千里馬一。千里馬常有、而伯楽不二常有一。故雖レ有二名馬一、祇辱二於奴隷人之手一、駢二死於槽櫪之間一、不下以二千里一称上也。・・・・・・嗚呼、其真無レ馬邪、其真不レ知レ馬也。〔世に伯楽(はくらく)有り。然(しか)る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故(ゆえ)に名馬有りと雖(いえど)も、祇(た)だに奴隷人の手に辱められ、槽櫪(そうれき)の間に駢死(べんし)し、千里を以(もっ)て称せられざるなり。・・・・・・嗚呼(ああ)、それ真に馬無きか、それ真に馬を知らざるか。〕
訳文
世間に馬の良し悪(あ)しをよく見抜く人がいてこそ、千里も走る名馬というものがありうるのである。名馬はいつでもいるけれど、それを見抜く人はいつもいるとは限らない。だから、たとえ名馬がいたとしても、見抜く人がいなければ、ただ下働きの者にこき使われ、飼い葉桶(おけ)の間に首を並べて死んでしまって、千里も走る名馬とはいわれないままで終わってしまう。(名馬に十分食べさせなければ、並の馬と同じになってしまうし、並の馬と同じように鞭(むち)打ったり、食事させたりして、名馬を理解しないで、世の中には良い馬はいないなどと言っている。)ああ、世の中にはほんとうに名馬がいないのか、それとも世の人が名馬を見分けられないのか。
解説
韓愈(かんゆ)(七六八~八二四)は伯楽(はくらく)のたとえを「温処士(おんしょし)の河陽(かよう)軍に赴くを送る序」や「人の為(ため)に薦(すす)めを求むる書」にも用いており、自分の才能を認めぬ上流の人への憤懣(ふんまん)をもらしている。杜甫(とほ)の「天育(てんいく)の驃(ひょう)の図の歌」にも、同じようなたとえが出てくる。また、「伯楽(はくらく)」がなまって、日本語の「馬喰(ばくろう)(=博労)」となったともいわれている。
類句
◆伯楽(はくらく)は常(つね)には有(あ)らず