前回までに、漢字圏のお金の単位について文字の体系、字種、字体、用法、そして語の表記の各面から、日本に視点を置いて比較・対照してみた。ベトナムを除く3か国ではそれぞれ、「圓」という共通の漢字とその字音に基づく語を用いていることを確認した。
さて、私が子供のころは、東西の冷戦構造がなお強固なものとして厳然とあり、国際関係は今よりももっと緊迫していた。東アジアでも、そうしたイデオロギーの対立などが複雑に絡まり合って、中国と台湾、中国とベトナム、中国と韓国、韓国と北朝鮮、日本と北朝鮮などの間で、国交や交流が困難な時期があった。それも今では、一部を除き行き来がだいぶ可能となってきている。
国際的なやりとりでは、商業、貿易から観光、旅行まであらゆる場面で、通貨の文字を互いに読んだり書いたりすることが必要となる(多くは数字の部分だけを見る)。もし1世紀ほど前の日本人であれば、中国、朝鮮・韓国のいずれの単位についても、「圓」と書いておけば、後は適宜、各国の発音に合わせて外来語として読み分けるなり、そのまま自国の漢字音で「エン」と言うなりすれば、事はまあ足りたのであろう。それは、中国大陸においても朝鮮半島においても、ほぼ同様であったであろう。
しかし、現在では、状況は逆にそれほど単純ではなくなっている。日本人は、中国の貨幣単位を「元」(人民元)と書き、「ゲン」と読んでいる。自国の漢字音で、ふつうに日本の漢語として読んでいるのである。先日の、人民元の切り下げ要求に関する新聞全国紙の記事でも、「人民元」と振り仮名なしで表記されていた。一方、韓国の単位については、「ウォン」と、韓国語の発音を真似して、外来語として片仮名で表記している。たいていの日本人は、「円」という漢字を彼の国ではウォンと読む、という知識からそうしているのではなかろう。つまり、韓国の単位については、そこに漢字を介在させることがなく、あくまでも相手国の発音を尊重しているのである。
それでは、お隣の韓国においてはどうなっているのだろう。日本の貨幣単位については、日本語風に「エン en」と呼び、それをそのまま「엔」とハングルで表記している。韓国では、中国の単位も「ウイアン uian」と中国語風に外来語として呼び、やはりそのとおりに「위안」とハングルで表記する。つまり、韓国では、もはや漢字の存在をほぼ完全に意識することなく、相手国の発音を尊重し耳で聞いたとおりに国語化させ、それをハングルという表音文字で表記しているのである。「ドル」を日本の影響から「弗」と漢字で書いていたために、その漢字音に従って「불 プル bul」(日本語のフツに対応する)と称してきたこととは、対極の状況を迎えている(今では、やはり現地音(ダラー)に近い「달러 タルロ」という外来語に取り替えられつつある)。
また、中国ではどうであろうか。日本の貨幣単位については、「日元」と表記し、Ri4yuan2(リーユアン)と発音する。中国では、韓国の単位も「韓元」(韩元 あるいは韓圓:韩圆:)」と表記し、Han2yuan2(ハンユアン)と発音している。つまり、中国は、漢字の国と呼ばれるだけのことはあり、すべて自国の規範的な漢字(字種・字体)に直して、しかも自国の漢字音で発音するのである。中国は、ほかの国の貨幣に対しても、自分たちと同じ「元」にしようとする。ユーロは欧元」(Ou1yuan2 オウユアン)と訳され、米ドルさえも「美元」(Mei3yuan2 メイユアン)が定着している(美はアメリカの音訳からで、字義はほとんど意識されていない)。なるほど、オバマ大統領だって「奥巴馬」のように漢字で音訳し、「欧巴馬」では欧州とイメージが混乱するという点では字義をある程度意識するようではあるが、その漢字列を中国語の発音で読むことによって、初めて中国語となり、中国社会で受け入れられるのである。そういう点で、漢字は中国語と一体なのであった。
先日、少し気になりだしたことがあったので、久しぶりに大学図書館で本をめくる時間を僅かではあるがもてた。イギリス人宣教師モリソンが1822年にロンドンで刊行した中国語辞典には、「dollar」すなわちドルの訳語として「圓」が記されていた。後のドイツ人宣教師ロブシャイドに至ると、「圓」のほかに簡易化された「員」「元」も辞書に用いている。清朝以来、それは行われてきたことなのである。