ベトナムにはすでに1度、行ったことがあった。北部ベトナムつまりかつての北圻(バッキー)にあるハノイとは対極に位置する南圻(ナムキー)のホーチミン市に、文字コード関係で、当時の文部省から派遣されて以来となる。ともあれ、あの頃に比べると、また漢字の全体に対して目を向けられるように、気持ちだけはゆとりができてきた。しかし、そうなると気に掛かるものだらけで、落ち着かない日々となる。
10年以上前の記憶をたぐると、30度以上の暑さが続くホーチミン市は、その昔、サイゴン(Sài Gòn)と呼ばれた。この南方の地は、元は京(キン)族の支配が及ばなかった場所で、サイゴンという地名もベトナム語由来ではないかもしれず、「柴棍」はベトナム人による音訳であった可能性がある。中国では音訳して「西貢」としている。指導者の名に代わるまでのこの旧名にまつわるイメージのとおり、フランスの香りの漂う都市だった。
あの時、日本は真冬だったが、ホーチミンの街は、熱気に溢れていた。飛行機がタンソンニャット国際空港に着く。この飛行場は漢字ならば「新山一」と書く。タラップへと出るその瞬間から、南国のムアッとする空気が襲いかかってきた。時刻は夜、街路に溢れかえるバイクの排気ガスのせいか、空気に甘い味がしたものだった。街中には漢字がとても少なかった印象がある。
一方、中国に地理的に近く、中国との接触の歴史も長い北部のハノイならば、もしかしたら漢字の使用が多く見られるのではなかろうか。6時間くらいベトナム航空に乗って、ベトナムの首都ハノイに、やっと着いた。マイレージが使えないことを忘れるほど、楽しみにしていた機内では、「非常口」のことを何と表現しているのか確かめたが、中国の「太平門」、韓国の「非常門」のような漢語ではなかった。機内アナウンスでは、「シンチューイー」(請う・注意)という決まり文句も意外なことに聞かれなかった。
ノイバイ国際空港(ベトナム語ではSân bay quốc tế Nội Bài)は、中国語では「内排」と表記される。そこに降りたって、入国手続き中に、
VỆ SINH
という表示の文字がまず目に入った。
中国からベトナム語に入ってきた漢語、いわゆる漢越語だ。漢字では「衛生」となる。トイレのことである。「衛生でトイレのことだけど分かりにくいよね」と連れに話すと、前のベトナム人とおぼしき年若い女性が振り返って微笑む。
この符号付きローマ字では日本人には日本語とのつながりが感じがたいが、もし漢字だったならばと考えると少し惜しいようにも思える。中国人からすれば、発音は好きにしてもらって構わないので、漢語は漢字にしてほしいとの声も一般に聞かれる。中国北方の人にとっては、福建や広東の状況とそう変わらないと感じられることもあるそうだ。
トイレに「衛生」の語を用いることは、「衛生間」が中国(簡体字はカタカナの「ヱ」からともいう)、「위생실(ハングル表記) 衛生室 ウイセンシル」は北朝鮮系の語にも見られる。中国の影響で、共産圏に広まりを見せたものであろう。
「お手洗い」「手洗い」は神社にあり姓にもなった御手洗(みたらし・みたらい)と語源は同じで、古い手水(ちょうず)にもさかのぼれそうだが、中国や台湾などでも「洗手間」(シーショウジエン)と書かれたトイレもあり、ベトナムでも「手洗い房」のように訳されて使われることがある。
中国の「厠所」は、日本でも駅など多言語表示で見受けるようになっているが、どこかで印象深く覚えたためだろう、多くの人がきちんと「かわや」などと読める。ただ、日本人からすると、少々古くさいイメージを伴う。「化粧室」は、婉曲化を一歩進めた表現で、日本で明治時代から見られるが、これにも中古からある「化粧(仮粧)の間」とつながりが感じられよう。韓国でも「화장실 ファジャンシル」として広まっている。中国や台湾でも「化妝室」(妝は粧と同じ ホアジュアンシー)が楽屋、メーキャップ室の意だけでなく、トイレの意として使われることがある。
トイレは、使っているうちに語の価値が低減し、新しい語への言い換えが行われる傾向が強く、「便所」のような直接的と感じられる表現よりも婉曲的な表現が好まれるかどうか、言語によって差がありそうだ。もっとも便所も、元は中世の頭髪や服装を整える「鬢所」(びんしょ)だといった話もある。また、中国の方言には、もっと直接的で明確すぎる表現も行われているのだが、ものがトイレだけに憚られるので、ここらへんで終わりにしよう。