ベトナムのトイレには、「WC NAM」といった表示が目立った。中国でもそういう場所では「男」と1文字での表示があるように、中国とは言語面での共通性を感じることが多い。トイレに付きものの男女のマークは、日本の図柄とよく似ているが、これは万国共通化が進んでいるのだろうか。かつてはあるいは瘴癘(しょうれい)の地などと呼ばれたものの、トイレの中は概してとても「衛生」的に保たれている。
この「NAM」は、漢字では男(ダン・ナン)であり、韓国や中国の広東などと同じく末尾の「m」音が保持されている。中国の中原での古い発音がそうだったためで、日本でも古くはそのように読んでいた時代があった。漢字では「男子」「男性」などと表示する日本では、1字で表示されていたならば、意味はよく分かるが、「おとこ」と読んでしまい、少々びっくりしてしまうだろう。
飛行場では、トランクを待つ手荷物受け取り所で、表示板に「HÀNH LÝ」とあるのが目に止まった。漢字ならば「行李」で、手荷物だ。中国語でも発音は違うが「行李」(シンリ)が相当する。なお、中国語のhang2にはベトナム語ではhàngが対応する。日本では「柳行李」などとして使っている語だ。漢語のローマ字表記の連続に、惜しいという気持ちがわき上がってきた。
パスポートに捺された入国許可のハンコも、もちろんローマ字だけで、クオックグウつまり国語といえばこの文字という現実を改めて思い知る。かつて独立・解放のために民族主義と共産主義とが結合し、帝国主義下で普及した敵国の文字という意味が反転し、国民が共有できる簡易な文字として、漢字やチュノムを習得し得ない民衆の間にまで、燎原の火の如くこれが広まり、そして公認されたのだ。
ついに街に出る。路上にはバイクが多く、自動車も信号が青であっても歩行者に常に優先するかのようだ。クラクションが鳴る。小さい車は「ビービー」と聞こえた。韓国に初めて行った時には「パーパー」と鳴っているように思えたものだ。中国では「ビービー」と私の耳には響くので、中国式か。日本で「ブッブー」というのは単に幼い頃から刷り込まれただけのようにも思えるが、実際にクラクションの機械によって出される音色、音質や音階が異なってはいるようだ。留学生に尋ねると、クラクションの擬音語にも、実際にその差が各国で微妙に現れているとのことだった。数日いると、大きい車は日本のような音を発しているような気がした。
ハノイを取り囲み、覆うように流れる幅の広いホン河を橋で渡る。漢字で書くと「紅河」である。言われてみると確かに水面が少し紅い。時期が立てばもっと紅くなるそうだ。こうして一つずつ漢字表記まで知ると、その内にある「河内(ハノイ)」の語源まで理解しやすくなる。道端の「公安」も中国語と同じだが、ローマ字表記だ。ここは、インドシナ半島というだけのことはあり、西はインド系の文化が強く、東のベトナムだけが中国色の濃い文化圏にある。
春のベトナム北部は、日本よりも10度くらい温かく、日中は涼しさもあり快適だった。ハノイの人は寒いと言うが、霧雨の時期も免れて、傘が不要だったのは観察したり撮影したりするのに幸いだった。「ホアンキエム湖」は、漢字だと「湖還剣」(Hồ Hoàn Kiếm)で、かつて後黎朝の皇帝がそこで得た「剣」を使って明軍を撃退し、その剣を湖水の竜王へ返「還」したという由来の伝承が彷彿とする。夕方はわずかに肌寒く感じられるようになってきたためか、その周辺で食事をする人たちもまばらだった。