さて、講義はこのように続きます。
凡そ世上の萬民術をなさゝるものなし。術の上には必す學あるなれは、世間悉ク學者ならさるなし。譬へは一鄕の中に名主あり、元ト政事學より出さるへからす。農夫或は紺屋等は化學より出て、大工あり器械學に出るなり。此の如く天下の人皆學術の人ならさるハなし。
(「百學連環」第20段落第1~5文)
訳してみます。
およそ世間では、誰もがなんらかの術をなすものだ。そして、術の上には必ず学があるのだから、世間には学者でない者はいないという次第。例えば、ある村里にはその土地の長がいるが、もとはといえば政事学に基づいている。また、農夫や紺屋(染め物業)は化学に、大工は器械学に基づいている。このように、天下の人は誰もがみんな学術の人なのである。
言われていることに不明なところはないと思います。ことさら学術の徒という者でなくても、誰もがなんらかの術に従事しており、その術は必ず特定の学と関連しているというわけです。
ここで欄外に政事学に関する注記が付されています。こんな文言です。
總て取極りをなすもの政事學の科なり。
つまり、ここで西先生が「政事學」と呼んでいるのは、なんらかの取り決めをすること全般に関わっているとの由。ついでに言えば、「百学連環」講義の本編でも、「政事學」が登場しますが、そこでの「政事學」は、英語のPoliticsに対応しています。当世風に訳せば「政治学」ですね。
続けて読みます。
然れとも眞の學術に至りては文學の資なかるへからす。文學は學術にあらす。文學の功德と云ふあり。第一今日より古へに通し、第二に四海に通す。通達の道必す文學の功德ならさるなし。
(「百學連環」第20段落第6~10文)
上記文中の「文學は學術にあらす」は、ここで参照している『西周全集』第四巻では、ポイントを落とした小さな字で印刷されています。
では、現代語にしてみます。
しかしながら、本当の学術については、文学のたすけが欠かせない。ただし、文学そのものは学術ではない。文学〔を身につけておくこと〕には御利益がある。第一に現代から過去に通じ、第二に世界に通じる。なにかしらの物事に深く通じるためには、必ず文学の力が必要なのである。
先ほどの万民がなす術やそれに関わる学に対して、ここでは「真の学術」、本当の学術が並べられています。そして、それには「文学」が是非とも必要だというのです。
ここで注意すべきは「文学」です。現在なんの注釈もせずに「文学」といえば、たぶんほとんどの場合、小説や詩、あるいはその評論や研究などを指すでしょう。さらに「文学研究」などと言われたりすることもありますね。これはliteratureに対応する訳語でもあります。
しかし、ここで西先生が言っている「文学」は、そうしたものを指していません。そのもっと手前、「文字」や「言葉」のことなのです。また、時代を遡ると、中国や日本において「文学」という言葉は、広く「学問」を意味していました。英語のliteratureにしても、古くはやはり「学問」を意味し、さらに言えば、letter(文字)に関する知識といった意味で使われていたようです。
そう読めば、「文学そのものは学術ではない」という、読む人によっては、ちょっとショッキングかもしれない文言も誤読せずに済みます。要するに、文字や言葉そのものは学術の道具であって、「~学」という形をしてはいるけれど、なにかの学術ではないよ、というほどの意味でありましょう。この発想は、アリストテレスの学術分類にも通じるものがありますが、それについてはまた機会を改めて述べることにします。