前回読んだ箇所にそのまま続けて、西先生は次のように語ります。
又上の二語に反するあり。後來をして今をしらしめ、彼れをして我レを知らしむ。此の如く文學の功徳たる旣に四通となるなり。故に文學なかるへからす。又文學なくして眞の學術となることなし。
(「百學連環」第20段落第11~15文)
訳します。
それから、上に述べた二つのことの逆もある。後の人に現在のことを知らせ、彼らに私たちのことを知らせるのである。このように文学には四通りもの御利益がある。つまり文学は必要なのである。また、文学がなければ本当の学術とは言えない。
ここで「文学」とは、文字や言葉の学のことでした。前回読んだ箇所では二つのメリットを掲げていましたね。いま読んだ箇所に合わせて言い直せば、1) 現在の人が過去のことを知ることができる、2) ここにいながらよそのこと、世界のことを知ることができる。つまり、文学のおかげで、時間と空間を超えてものを知ることができるという話でした。
さらにそれに加えてその逆もある。3) 現在のことを未来の人に知らせることができる、4) よその人たちにここの人たちのことを知らせることができる、というわけです。1と2とは逆向きのこともできるぞ、それこれも文学あってのことだ、という次第。
こうした文字の恩恵については、図書館や書店やインターネットの各種アーカイヴを覗けば、否応なく分かります。私たちが、古代メソポタミアや古代インドの神話、プラトンの著作、中国の賢人たちの言葉に触れることができるのも、それが文字で記され、物質として現在まで伝存しているからです。
言うまでもありませんが、文字として記されなかった言葉、人と人が口頭で語り合った言葉は、そのつど空気のようにかき消えて、時間や空間を大きく超えることはありません(現代なら録画、通信、放送という手段で、話言葉も時空を超えることができますが)。
こうした言葉の力に与ることなくしては、学術は成り立たないというのも頷けるでしょう。そして、言葉の力に頼らずに行われている学術は、おそらくありません。このことは、あまりにも当たり前過ぎて、かえって顧みられることが少ないかもしれませんが、何度でも思い出し、吟味してよいことです。
例えば、学術を「理系」と「文系」に分けて考えることに慣れ過ぎてしまっていると、全ての学術が「理」か「文」のどちらかに分けられると誤解してしまうかもしれません。例えば、言葉に関わる「国語」は、「文系」の学術だという誤解がその最たるものでしょう。
しかし、まったくもってそんなことはないわけです。理系の学術といえども、対象や現象について、何で記述するかといえば、それは言葉や文字で記すわけです(必要に応じて図を用いるとしても)。
これが屁理屈でないことは、当の科学者たちも言葉の重要性を指摘していることから分かります。例えば、植物学の泰斗、牧野富太郎(1862-1957)は、『植物記載学後篇』(1913)という本の中で、やはり言葉の重要性を力説しています。
植物を記述(記載)するには、文字と絵画を使います。中でも文字について牧野はこう注意を促します。
文字ニヨリテ〔植物ヲ〕記載スル場合ハ、寫生畫ニ於ケルト、少シク趣ヲ異ニシテ居ル。即チ文字及ビ其ノ使用法、換言スレバ、文字ニ關スル知識ト、文章ヲ綴ル事ニ關スル知識トヲ、十分ニ會得シテ居ラネバナラヌ
(『植物記載学後篇』、大日本博物学会、1913、36ページ)
ある植物、例えばツツジがどのようなものかを正確に記述しようと思ったら、記述に使う文字(言葉)について、知識と使い方を十分身につけていなければとてもできない相談だというわけです。この指摘は、西先生の「文学」の重要性についての指摘と一脈通じていると思います。
これは植物が対象の場合ですが、対象が天体であれ、動物であれ、化学物質であれ、脳細胞であれ、素粒子であれ、それを言葉でどう記述するかという点では同じです。例えば、量子論を進展させたニールス・ボーアやハイゼンベルクたちなども、しばしば言葉で自然現象をどう捉えるかという議論をしていました。
つまり、理系の学術であっても、言葉の知識や用法をけっして疎かにするわけにはいかない次第です。