「百学連環」を読む

第122回 記述的学問

筆者:
2013年8月23日

「体系(system)」についていくつかの具体例が挙げられました。次に、体系化しづらい学問について論じられます。

凡そ學に於て規模たるものなき能はすといへとも、て之を求めむとなすときは却て信を失ふの害ありとす。規模は何學にてもなかるへからさるものといへとも、其中 History 及ひ Natural History 史及ひ造化史の學は規模になし難きものなり。是を Descriptive Science ち記述體の學といふ。

(「百學連環」第50段落第3文~第5文)

上記のうち、Descriptive の左に「記述體ノ」と添えられています。訳してみましょう。

およそ学においては、体系がないというわけにはいかない。とはいえ、強いて体系を求めようとすれば、かえって信用を失ってしまうという弊もある。どんな学であれ、体系はあるべきものだ。しかしながら、諸学の中でも「歴史(History)」と「博物誌(Natural History)」という学については、体系化しにくい。これを「記述的学問(Descriptive Science)」という。

ご覧のように、学と呼ばれるものであれば、必ず体系があるものだ、という具合に体系と学の関係が改めて強調されています。ただし、無理矢理体系化すればいいというものでもない、としっかり釘も刺していますね。

「歴史」と「博物誌」は体系化しづらいという指摘について、少し検討してみます。これらの学問は、なぜ体系化しづらいのか。歴史とは、過去の出来事を対象にします。つまり、主に人類が地上に現れてからこの方(あるいはそれ以前から)、どのような出来事が生じてきたかという、出来事の連なりを対象として、実際のところ何がどうなっていたのかを究明するわけです。

この時、歴史上の出来事は、そのつど一度しか生じないことですから、よほど抽象度を上げて細部を捨象しない限りは、一般化できません。例えば、トロイア戦争と湾岸戦争を「戦争」という抽象的な観点から見れば、なるほど比較もできましょうが、個別具体的な出来事としては、比較を絶します。それぞれが別の時代、別の場所、別の状況や条件下で生じたことであり、別の経緯を辿るからです。だから、一般化しづらいし、体系も仕立てにくいという次第。

ことは博物学も同様です。地上に存在するあらゆる動植物や鉱物などの自然物が博物学の対象になります。千差万別のそうしたものについて、個別の違いを無視して一般化してしまうだけでは済みません。一つ一つについて、それはどういうものなのかということをつぶさに記述してゆく必要があります(その上で分類を施したりもします)。

そこで、こうした学は、もっぱら「記述」を中心とする記述的学問だ、というわけです。「記述」とは、要するに、一つ一つの出来事や対象について「これはこういうものである」という描写をするということを指します。

ところで、この Descriptive Science という言葉は、学問を分類する際に、いろいろな文脈で使われます。その文脈によって、同じ”Descriptive”という語も違う意味で使われることがあるようなのです。いくつかの例を見ておきましょう。

例えば、記述的学問は、「規範的学問(Normative Science)」と対比されることがあります。規範的学問とは、或る物事が「いかにあるべきか」という規範や価値判断に関わる学です。例えば、ジョージ・サビーン(George H. Sabine, 1880-1961)は、「記述的学問と規範的学問(Descriptive and Normative Sciences)」(1912)という論文において、論理学と倫理学を規範的学問の例として挙げています。また、「なんであるか」を記述する記述的学問の例としては、物理学が例示されています。

あるいは、アゴスト・プルスキイ(Ágost Pulszky, 1846-1901)の『法と市民社会の理論(The Theory of Law and Civil Society〉』(1888)という本では、冒頭で学問分類論が展開されています。ここでは詳しく検討できませんが、法律を論じるために、その準備として学問全体の分類を検討するという絶えて久しい志と構成自体、興味深いですね。

さて、同書でプルスキイは、学問を 「真の学問(True Sciences)」と「記述的学問(Descriptive Sciences)」に分けています。前者は、「理論的学問(Theoretical Sciences)」あるいは「哲学的学問(Phiilosophical Sciences)」、「純粋学問(Pure Sciences)」とも言い換えられます。つまり、現象を記述する記述的学問と、多数の現象をまたがってそこから抽象される理論の次元で行われる理論的学問とを分けているわけです。

ただし、プルスキイは、同じ学問でも、理論的学問の側面と記述的学問の側面があるとも指摘しています。例えば、生理学には、理論的学問としての生理学と、記述的学問としての生理学があるという具合です。

もう一例、覗いておきましょう。ルイス・アルバート・ネッカー(Louis Albert Necker, 1786-1861)は、「鉱物学を博物学の一部門として考察する(On Mineralogy considered as a Branch of Natural History, and Outlines of an Arrangement of Minerals founded on the principles of the Natural Method of Classification)」(1832)という論文において、鉱物学を、動植物学、あるいはさらに広く博物学と同様の「実証的・記述的学問(positive and descriptive science)」であるとしています。これに対置されるのは、自然哲学、物理学、化学のような「抽象的学問(abstract sciences)」です。

ネッカーの見立ては、プルスキイのものに通底していますね。理論か現象の記述かという分け方でした。

ついでながら、一時期日本の哲学界にも影響があったドイツ語圏に目を向けておきましょう。ウィンデルバント(Wilhelm Windelband, 1848-1915)は、「歴史と自然科学(Geschichte und Naturwissenschaft)」(1894)において、学問を「法則定立(nomothetisch)」の学と「個性記述(idiographisch)」に区別しています。これは常に該当する普遍的なものか、ある状況だけに該当する特殊なもの、一回的なものか、という区別でもあります。ウィンデルバントは、両者の例として、自然科学と歴史学を挙げています。先に見た、ネッカーやプルスキイの見方と同じ方向を向いた分類です。

さて、西先生が、どのような文脈で「記述的学問」という言葉を使っているのか、この講義の文脈だけでは図りかねます。ただ、「体系立てづらい」学問として記述的学問に言及しているところ、その代表として歴史や博物学を挙げていることから察するに、理論的・抽象的学問と区別された記述的学問を念頭に置いているのだろうと推察できます。

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=强(U+5F3A)
=歷(U+6B77)
=卽(U+537D)

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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