学問を物理学系と心理学系に分けた上で、その優劣が問題になっていたところでした。続きを読みましょう。
凡そ物理の開くに從ふて心理も又變易せさるへからす。譬へは父子あり、數百里を相隔てゝ在り。然るに子たるものゝ年々父に歸省せむと欲すとも數十日を費し、己レの勤めを缺く故に年々敢て歸省なす能はす。然れとも今物理開けて、蒸氣船あり蒸氣車ありて、數百里の用を數日に便することあれは、心理之に從ふて變易し、猶年々歸省し得るか如き、心理は物理に從ふて變易するか故に、物理は心理よりも學の主として重すへきものゝ様に見ゆるなり。然れとも物理を使役するものは心理にして、物理は心理に役せらるゝに至るなり。右物理心理の二ツを明かに了解し得るものハ、古來佛家社家などの説に神力、或は祈祷力、或ハ狐狸の虚誕なるは總て其理の據る所なきを知るへし。此の如きは歐羅巴中絶てこれなき所なれと、漢儒朱子の如きも未タ其惑を免かるゝこと能はす。
(「百學連環」第50段落第40文~第46文)
訳してみます。
およそ物理が進展するに従って、心理もまた変わりゆくことになる。例えば、父子がいるとしよう。二人は何百キロも離れて暮らしている。だから、子が年ごとに父のもとへ帰省したいと思っても、数十日を要するし、それでは自分の仕事ができないので、毎年帰省するというわけにもいかない。だが、今日では物理が進展して、蒸気船もあれば蒸気車もある。何百キロの距離であっても数日で移動できるという便利なものだ。そこで、〔こうした物理的条件の変化によって〕心理もその変化にしたがって変わり、毎年帰省できるようになる。このように、心理は物理にしたがって変わりゆくので、物理は心理より中心的な学問として重視して用いられるようになったように見えるだろう。だが、物理を利用するのは心理であって、物理はあくまでも心理によって使われるようになるものだ。右に述べてきたように、物理と心理の二つをはっきりと理解できれば、昔から仏教や神道で言われてきた「神力」や「祈祷力」や「狐狸」といったものがまるで根拠のないデタラメなものであることが分かるはずだ。こうしたことは、ヨーロッパではすでに見られなくなったものだが、儒教や朱子学のようなものは、いまだにこうした惑いを免れていないのである。
少し長くなりましたが、ここで述べられている具体例自体は、特に理解しがたい内容ではないと思います。物理が進展する、つまり、自然科学によって物質世界の性質や規則性が発見されるに従って、その発見を応用してさまざまな技術が発明されてゆきます。西先生からさらに百年を隔てる私たちは、飛行機や新幹線といった各種移動手段はもちろんのこと、コンピュータやそのネットワーク、個人が手軽に携帯できる小さな端末など、技術の粋を集めた道具を使っているところです。
もう少し言えば、私たちは技術によって、人工的に自らの住む環境をさまざまに造り替えています。そうすることで、百年前なら到底不可能だったこと、例えば、Skypeなどのインターネット上のサーヴィスを使って、ネットにつながったコンピュータさえあれば、地球上のどの場所であれ(そうした通信が規制されていなければ)、テレビ電話で互いに顔を見ながら話し合うことができます。
こうした物理環境が変化することによって、人の心理も変化を被るという指摘は頷けると思います。例えば、デジタルカメラやスマートフォンが普及した結果、利用者のなかには食事やお茶のテーブルを撮影して、twitterやfacebookといった各種ソーシャル・ネットワーク・サーヴィス(SNS、インターネット上に設置されたコンピュータを経由して利用者同士が互いの投稿を閲覧したりやりとりをする仕組み)に投稿する人も少なくありません。というよりも、日常茶飯事となっています。こんなふうに行動する人は、ひょっとしたらカフェでお茶をする時にも、街を散歩している時にも、目に入る光景を「カメラで撮影して、SNSに投稿できるものか否か」という目で見るようになっているかもしれません。これも、物理の変化に伴って心理が変化する例です。
あるいは、インターネットの普及以前なら、辞書を引いたりものを調べたりするのを面倒がっていた人でも、いまでは分からないことに遭遇したら、すぐにネットで検索する習慣がついているかもしれません。
ともあれ、物理環境が変わることで、心理にも変化が及ぶという指摘は、時代を問わず言えることだろうと思います。
では、物理のほうが主で、心理は従なのか。西先生はそのようには言っていませんが、敢えて図式的にはっきりさせれば、そういう構図でしょう。しかし、そうではない。物理を使うのは、あくまでも心理なのだと主張しています。前回見た箇所で、西先生は、物理と心理を軍事に譬えていました。どんな兵器や装置かというのが物理だとすれば、これをどんなふうに用いたり、作戦を立案するかが心理だということでしたね。ことは軍事に限らず、どのような物理であっても、人がそれをどのように使おうと考えるか次第、つまり心理次第であるというわけです。ここには、なにを「善し」とし、なにを「悪し」とするかといった、倫理の問題も関わってきます。
また、このくだりの余白には、次のようなメモが見えます。
心理物理互に關渉するものなりといへとも、先心理開けて物理開ケ物理開ケて心理益明カナリ。
訳せばこうなりましょうか。
心理と物理は相互に干渉するものだが、まずは心理が進展し、次に物理が進展する。そして物理が進展することで心理がまた明らかになる。
鶏と卵のような話ではありますが、まず心理が先に進むと述べられています。自分が置かれた状況や経験からなにかを発想する。その発想に従って、環境を変化させる。環境の変化に応じて、また新たな発想が生まれる。映画『2001年宇宙の旅』の冒頭を思い出します。はるか太古の地球で、猿が動物の骨を手にしている。その骨がなにかの拍子で地面を打って、そこにあった骨に当たる。いま何が起きたのかと思いを凝らす猿。同じ動作を試すように繰り返し、発見が確信に変わる。この骨でものを叩くことができるぞ!
つまり、この猿は、それまでただの骨、動物の死骸に過ぎなかったものを、ものを叩くための棒として認識したのでした。この心理の変化によって、以後、骨は道具となり、他の群れとの戦い方も変わります。それまでとは戦いに臨む心理もおおいに変わったことでしょう。
事柄の複雑さや単純さは別として、西先生が指摘していることは、そういうことではないかと思います。
そして「総論」最後の文章です。
此書學術を以て相連ねて二編とし、學を以て前編とし、術の學に係はりて離るへからさるものは並ひ説くを要し、術を以て二編とす。即ち第一編は普通の學を説き、第二編は殊別學、心理物理の二ツを説くを要す。
(「百學連環」第50段落第47文~第48文)
訳します。
この書物では、学術を連ねて二編とする。前編では「学」を、後編では「術」を扱う。ただし、術が学に関係して分離すべきでないものについては併記する。つまり、第一編は「普通の学」、第二編は「個別の学」、つまり「心理」と「物理」の二つを説くことになる。
「百学連環」本編の構成を説明したくだりです。ただ、この書き方は少し紛らわしいですね。そこで、同じ箇所を乙本で補うと、どうやらこういう構成であることが分かります。
第一編 学
・普通学
・個別学
・心理
・物理第二編 術
以上で、本連載当初の目標であった「百学連環」の「総論」を通読しました。連載を終わる前に、これまでの道のりを振り返って、補足と感想を述べたいと思います。もう少しだけお付き合いいただければ幸いです。
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社=社(U+FA4C)
神=神(U+FA19)
祈=祈(U+FA4E)
祷=禱(U+79B1)
虚=虛(U+865B)
即=卽(U+537D)