さて、当初目標に掲げていた「百学連環」講義の「総論」を読み終わりました。あと2回ほど、この場をお借りして、補足と振り返りをしてみたいと思います。まずは補足から。
第126回「普通学と個別学」で、西先生が学術全体を「普通学(common science)」と「個別学(particular science)」とに分ける様子を見ました。そこで挙げられていた具体例では、こんな具合に分類されていたのをご記憶でしょうか。
普通 歴史、算術、地理学
個別 植物学、物理学
そして、この分け方を見て、ちょっと疑問を感じたと申しました。少なくとも私の感覚では、歴史や地理は個別具体的なことを扱う学であり、物理学こそ個別具体的なものを離れた一般抽象的なもの、普通の学であるように感じられたからです。つまり、西先生の意図やものの見方に迫り切れていない憾みがあったわけです。
そういうつもりで、改めて「百学連環」における「普通学」と「個別学」の分類を見直すと、次の通りでした。
普通学(Common Science)
歴史(History)
地理学(Geography)
文章学(Literature)
数学(Mathematics)個別学(Particular Science)
心理上学(Intellectual Science)
物理上学(Physical Science)
これは第127回「「普通」とはなにか」で検討したことです。西先生は、現在を知るには過去を知る必要がある。だから「あらゆる諸学を「歴史」と見立ててもよいぐらいだ」と述べていましたね。
この区別をどう見るか。これが問題です。
私見ですが、ここで「普通学」と位置づけられている諸学は、どんな学問を専門とするかにかかわらず、全員が学んでおくべき学術の基礎、おおまかな物言いをお許しいただくとすれば、学術の道具(オルガノン)であるという見立てなのではないかと思います。
「オルガノン(οργανον)」とは、古典ギリシア語で「道具」を意味する言葉です。これはアリストテレスの著作のうち、論理にかかわる諸作品に与えられた名前でもありました。論理は真理を探究する基本的な道具であるという発想です。
そのような目で上記の分類を見直すと、歴史と地理学は、人間の文化全般を中心として(自然現象も含めて)、時間的・空間的な広がりのなかで捉える学問領域と言えるでしょう。地球という場所で学術を営む人間としては、基本となる学術であるというふうに考えてみることができます。
また、文章学は、学術を営むにあたって不可欠の言葉に関わるもの。数学は、数や方程式や図形を駆使して、抽象概念を一義的に扱うためのものです。どちらも、それなくしては学術を営むことが難しいものです。
このように考えると、上記の四領域が「普通学」に位置づけられていることも、理解しやすくなろうかと思います。ヨーロッパの「自由七科」という言い方になぞらえていえば、「自由四科」の基礎教養とでもなりましょうか。
しかし、それであれば、自然がどうなっているかという理解や、人間精神の働きがどうなっているかという理解だって、学術を進めるうえでは重要な認識ではないか。このようにも考えられます。諸学術のなかで、なにをもって「普通」とするかということは、その分類を施す人の学術観、さらには世界観に大きく依存することでしょう。
西先生も、この点については考えるところがあったようで、「覚書」に、この分類に関するメモがあります。筆書きのメモのうち読み解けていない文字もあるのですが、読み取れた部分を抜粋してみます。
此普通殊別ヲ今日學ノ上ノ區別ト見ルヘカラス
是其學術ノ性質ニ本テ立ルモノ也
(略)
只學フ上ニハ特ニ世ニ人ニ依リ處ニ随テ猶斟酌アルヘシ
譬ヘハ窮理ヲ普通ニ入ルヽカ如シ
又法学ノ一端ヲ普通ニ入ルカ如シ
(『西周全集』第4巻、宗高書房、333ページ)
訳せばこうなりましょうか。
この「普通学」と「個別学」という分類は、現在の学に関する区別と見てはならない。
これは学術の性質に基づいて施した区別である。
(略)
学ぶ際には、とりわけ時代や人、場所などを考慮する必要がある。
例えば、物理学を普通学に入れるということもあれば、法学の一部を普通学に入れるということもあるだろう。
このように、普通学/個別学という分類自体が、相対的なものであることを記しています。
また、この問題については、『西周全集』の編者である大久保利謙氏も全集第4巻の「解説」で詳しく検討しています。そこで参照されている「覚書」では、要約すると次のことが検討事項として挙げられています。
・普通学に分類した学術の中には、広範にわたるために、普通学と言いがたいものもある。
・例えば、語源学(文学)、測地術(数学)などは個別学である。
・この普通学/個別学という分け方では説明できないこともある。
・歴史→文学と並べたが、この順序も再考の余地あり。
・歴史、文学は心理に属し、数学は物理に属し、地理は中間にある。
一度は分類を立ててみたものの、満足していない様子が窺えます。大久保氏の解説によれば、西先生はこの後も、学問分類について検討を重ね、分類自体が変化していきました。やはり、前記の解説からその次第を抽出するとこうなります。
まず、『明六雑誌』に連載した「知説」(明治7年)では、改めて次のように整理されます。
・学問を「普通の学」「物理の学」「心理の学」の三つに分類。
・普通の学には、文、数、史、地が属す。
・この四つの学は、心理と物理に属さず、両理を記述解釈する道具である。
目立つのは、史、地、文、数という順序が、文、数、史、地と組み替えられていることです。先に置かれたものほど重視されると考えると、歴史と地理の位置が第3、4位に下げられたわけです。
また、西先生は「日本文學會社創始ノ方法」(『西周全集』第2巻に収録)という講演で、東京学士会院の組織改革案に関連して学問分類を論じています。東京学士会院とは、欧米のアカデミーに倣って、1879年(明治12年)に設立された団体です。後に帝国学士院を経て、現在の日本学士院となります。これも要点をまとめると次の通りです。
・院内を心理諸学と物理諸学とに二分する。
・文学と数学は心理諸学と物理諸学の筆頭に置く。
・文学と数学は、諸学を貫通組織する学術であり、心理と物理の両方に関係するが、文学は心理諸学に関係が深く、数学は物理諸学に関係が深い。
・歴史は心理諸学の一つに分類。
このように、文学と数学の二つが「普通学」としての位置に残されています。この二つは心理、物理の両者に関わるものだという指摘にも注意しておきましょう。ここでは引用していませんが、西先生は「ここにご出席の先生方は、心理諸学(人文学)、物理諸学(自然科学)の両方に通じていらっしゃるわけですが」と、凄いことをさらりと述べてもいます。
さて、いずれにしても、学術を遂行・記述する上で不可欠の言語に関わる学術が普通学と見なされているわけです。平たく言えば「読み書き算盤」、当世風に申せば「リテラシー」とでもなりましょうか。それが、時代や場所や人によって違ったり、変化するのは、先にも述べたように学術観や世界観によるわけです。