前回の簡単なまとめになりますが,登場人物がほかの登場人物に向けて発するせりふ(微視的コミュニケーションへの情報提示)は,同時に,読者(観客)にも向けて発せられています(つまり,巨視的コミュニケーションにも貢献しているわけです)。日常の食卓であれば過剰に饒舌であるはずの味覚表現が,グルメ漫画ではさほど不自然に感じられないのは,そのためでした。
せりふを自然かどうか判断するのは読者ですから,つまるところ,読者が納得できれば,それでいいのです。ことに大衆的なフィクションにおいて,巨視的コミュニケーションの要請は微視的レベルにおける伝達にしばしば優先します。『美味しんぼ』に見られる過剰な味覚表現はその一例で,作中の料理の味を読者に説明する役目を背負うがゆえの饒舌でした。
類例は,ほかにも見出せます。作品世界内の設定や必要な情報を読者に伝えるための説明ぜりふがそのよい例です。説明ぜりふは劇的な緊張をそぐので,できるだけ目立たぬようにそれとなく提示するのがふつうです。もっとも,テレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』のように,そのような常識にとらわれることなく,説明的な長ぜりふを堂々と繰り広げる恐るべき例もまれにあります。
次の例は,読者に対する説明をもっとあからさまに行ったもので,説明ぜりふのパロディーになっています。あだち充の漫画『H2』から採りました。国見と野田は幼なじみの親友という設定です。
(63) 国見: よう!腰を痛めて野球を辞めた中学時代おれとバッテリーを組んでいた捕手の野田じゃないか。 野田: だれに説明してんだよ。 (あだち充『H2』ワイド版1巻)
よく見知った友達に出会ったとき,互いに分りきっている自分たちの関係をわざわざ確認する人はいません。めんどくさすぎます。しかし,このあまりにも不自然なことば遣いが笑いとしてあっさり受け入れられてしまうのは,読者(観客)に物語の状況を説明せねばならないというフィクションの特徴を逆手に取っているからです。(おまけに「だれに説明してんだよ」という当を得たコメントまで付けられています。)
巨視的コミュニケーションにも配慮しながら作品内のせりふを作っていかねばならないのは,フィクションに固有の事情です。巨視的伝達に主眼を置きつつ微視的レベルのやり取りを構想すると,日常のコミュニケーションからは思いつかないような表現も可能になります。以下の例は,寺沢大介の『将太の寿司』からの抜粋です。主人公の寿司職人関口将太は,新人寿司職人コンクールなる全国大会の決勝で,山と積まれたヒラメのなかから最上の素材を選び出すという課題を与えられています。
将太は心のなかでこうつぶやきます。「選ぶべきは天然もの!! このヒラメの山の中からまず天然ものを選び出すんだ!!」この誰に聞こえるはずもない心の声は,「その通り!!この目利きでまず一番に見るべきはそれだ!!」と,審査員たちの心内発話に受け継がれていきます。彼らは,あたかもテレパシーで伝達しあうようにたがいの心の中を読み,心内発話の会話を紡いでいくのです。
その結果,微視的伝達のレベルにおいて超自然的なやりとりが成立することとなりました。ですが,この漫画をふつうに読んでもらうと,たいていの人はせりふが持つ不自然さ——いや,超自然さ——に気づかずに読み進めるのです。
おもしろいとは思いませんか。
この一節の表現は,読者への情報提示を強く意識しています。登場人物の外見を描く絵とその心的状況を示すせりふとが,登場人物ごとに提示されます。ですから,それぞれの登場人物が何を考えているのかは一目瞭然です。その個々のコマをそれぞれが対話しあっているかのように連ねてみたわけです。
たしかに,登場人物のやり取りとしてはありえないことが起こっています。しかし,このように心内発話を連ねたことで,ヒラメを選ぶ目利き勝負にかける主人公の意気込みと審査員によるこの課題に関する解説がスムーズに提示されています。つまり,読者に向けたストーリーの展開は,非常に効率よく行われているのです。
登場人物や背景を描く絵があって,登場人物のせりふは吹き出しに記される。登場人物の思考もせりふとは区別して提示できる。漫画にはジャンルに固有の表現手法が構造化されています。このような漫画特有の構造(多分に読者を意識したものです)にもとづいて発想することではじめて,非現実的な「会話」が現実のものとなったのです。
『将太の寿司』のこの一節は,読者の存在と漫画特有の表現手法を抜きにしては語れない,きわめて漫画的な表現だと思います。