フィクション作品は,特段の理由のないかぎり,読者が必要とする情報を分りやすく示させねばなりません。前回確認した説明ぜりふや『将太の寿司』の超自然的会話は,グルメ漫画の味ことばと同様,読者に向けた巨視的コミュニケーションを強く意識するがゆえに生まれた表現です。日常会話なら不自然なはずの表現が,自然に(少なくともあまり不自然ではないかたちで)読者に届けられます。フィクションの機構から生まれた,フィクション特有のことばと言えるでしょう。
これとは逆に,日常なら自然なはずの表現がフィクションのせりふとしては不自然に聞こえることもあります。以下は小説の一節です。大学教授が卒業生のエピソードを女子大生に対して披露しています。
(64) 「[彼は]長髪を後ろで縛った,女の子のような髪型をずっとしていました。今は髪の長い男も当たり前のようですが,昔ですからねえ。これは随分と目立ちました。ある時,《昨日,高校時代の同級生と会いました》というんですよ」
「ええ」
「夜,新宿を一人で歩いていたら,酒場から学生服を着た集団が出てきてわいわい騒いでいる。そのうちに彼らも歩き出して,ぴったり後ろにつく格好になったそうです。そうしてしばらくしたら,背中のほうから,《おい,あいつ男だぞ,だらしがないな,活を入れてやろうぜ》という声がしたそうです」
「うわあ」
「まずいな,と思ったそうですが咄嗟にどうしようもない。たったったと足音が近付いて来た肩に手がかかって,《おい》。仕方なく振り向いたら,それが同級生だったんですよ」
珍しい形の再開ではある。(北村薫「織部の霊」『空飛ぶ馬』)
どこか物足りないところはなかったですか。
女子学生が発した「ええ」と「うわあ」は,日常会話の反応としてはふつうかもしれませんが,小説というコンテクストに置かれるとあまりにもそっけない。なんだか会話の流れを遮っているような気すらします。それに引き換え,語り手でもある女子学生が,相づちの代わりに「珍しい形の再開ではある」と感想を差し挟むところは,スムーズに話がつながります。
これはどういうことでしょうか。
相づちは,聞き手が話し手のことばを了解していることを示し,コミュニケーションが良好に行われていることを話し手に伝えます。会話の交渉を進めるうえでは大事な信号です。
しかし,会話者にとって意味のある相づちも,これを傍らで聞く設定の観客・読者には,さしたる意味があるわけではありません。ことに「ええ」や「うわあ」というほとんど応答のみに特化した表現には,読者にもたらす情報がほとんどありません。だから,読者の側からすれば,登場人物の話の流れが妨げられた印象を受けるのだと思います。
要するに,相づち的な応答を小説の会話で提示するにしても,一定の情報量を伴い会話の流れに寄与する応答でないと,読者にはしっくりこないのです。では,先の「うわあ」を以下のように変更するとどうでしょうか。
(65) 「《活を入れてやろうぜ》という声がしたそうです」
「それはまずいですよね」
「でも,咄嗟にどうしようもない。……」
「まずい」という実質的な情報内容を持つことばを大学教授のせりふから抜き出して,女子学生のせりふに組み入れると,(登場人物のキャラが少し変わってしまうおそれはありますが)せりふの流れはよくなります。日常会話に見られる相づちをそのまま再現するだけだと,また聞きする立場の読者(観客)には自然に聞こえないこともあるのです。
(64)は北村薫のデビュー作から採りました。北村の文章はとても好きなんですが,(そして『空飛ぶ馬』もとても好きなんですが,)デビュー当時のせりふ回しに若干の違和感が残るのも事実です。
フィクションのことばを扱う際には,このように,読者に向けた巨視的コミュニケーションに配慮する必要があります。この点を念頭に入れたうえで,次回以降は,小説の心理描写における味覚表現の妙へと話を進めてみましょう。