ということで,ここしばらく,「キャラクタ」もしくは「キャラ」をめぐるさまざまな言説を概観してきたわけだが(補遺第78回以降),まとめてみると,これまでに少なくとも3種の異なる「キャラ(クタ)」があったということになる。
第1種は英語”character”そのままの「登場人物」という意味の「キャラ(クタ)」である。ここでは,キャラ(クタ)が登場するはずの「物語」を作り手が用意しているか否かは問わないものとした(補遺第78回~第80回)。ハローキティやポケモンのような商品化されたキャラ(クタ)や,いわゆる地方起こしのゆるキャラもこれに含まれる(補遺第94回~第97回)。
第2種は伊藤剛氏によるマンガ論での「キャラ」(Kyara)であり(補遺第81回~第83回),これはマンガ世界内の人物のアイデンティティに関わる意味を持っている。この「キャラ」は多方面にわたって共感者・追随者を生み出したが,伊藤氏の「キャラ」観を真に厳密に継承した論考は意外に多くない(補遺第84回~第87回)。(但し,伊藤氏自身が認められる,岩下朋世『少女マンガの表現機構:ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』(NTT出版,2013)のようなものは存在する。)
そして第3種は私がずっと述べてきたもので,これは現実世界内の人物のアイデンティティに関わる意味,ひとことで言えば,状況に応じて変わる自己という意味を持っている。この「キャラ(クタ)」の大きな特徴は,(1)伝統的な人間観からすればタブー視される考え「人間は状況に応じて変わり得る」に基づいていること,そして,(2)研究者(私)の創作によるものではなく,日本語話者たちが日々の生活の中で,カミングアウトにより作り上げたものだということである。私はこれをそのまま専門用語として採用したに過ぎない(補遺第88回~第93回)。
但し,これまでに現れた「キャラ(クタ)」という概念が以上3種に限られるというわけではない。たとえば岡本裕一朗氏は「アイデンティティの確立よりも「キャラ」の使い分けが大事な時代なのではないか」という発言をされるにあたって(岡本裕一朗『12歳からの現代思想』筑摩書房,2010),「キャラ」を「フィクションとして演じられる役柄」とされている。瀬沼文彰氏の「キャラ」も(補遺第92回),これと近いように私には思われる。こういうものを「キャラ(クタ)」の第4種とすることも可能かもしれない。
しかしながら,そうした「演じられる」そして「使い分けられる」意図的な概念を「キャラ」の1種として認め,必ずしも意図的ではない第3種と並置すれば,「キャラ(クタ)」をめぐる言説はますます錯綜してくるだろう。それに何より,岡本氏や瀬沼氏の「キャラ」論は,その「キャラ」を「第3種のもの。但し,特に意図的な場合」として読んでも,理解に支障をきたすようには思えない。そこでこれらは独立種とはせず,第3種の下位類と位置づけておく。詳しくは11月15日(日)の日本語文法学会大会パネルセッション「日本語とキャラ」で話したい(//www.nihongo-bunpo.org/conference/conference/#2ndam)。