昨年は「源氏物語千年紀」ということで、京都を中心とした物語ゆかりの地で様々な企画が行われました。私も初夏に京都文化博物館を訪れて「源氏物語千年紀展」に展示された数多くの見事な文化財を鑑賞しました。また、年末には東京で『源氏物語』をテーマにした雅楽の会に足を運び、廃絶した男踏歌(正月14日に、男達が足を踏みならし拍子をとって歌を歌いながら、宮中から貴顕の邸を巡った年中行事)の再現や琴(きん)の演奏に感銘を受けました。
千年も前の文学作品が、こんなにも幅広い豊かな伝統文化を現代にもたらしてくれることには今更ながら驚かされます。
さて、このように人々の心を魅了し続ける物語の作者は言うまでもなく紫式部という一人の女性です。そして、彼女があからさまな敵意を持って指弾した相手が清少納言です。『紫式部日記』に記された次の文章は有名です。
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。
(清少納言といえば、得意そうな顔をして我慢のならない人。あれほど偉そうに漢字をおおっぴらに書いていますけど、よく見れば、まだまだ不十分な点がたくさんあります。:筆者訳)
随分辛辣な文章ですが、紫式部がここまで書いたということは、彼女にとって清少納言がそれだけ大きな存在だったということでもありましょう。
実は、私は『枕草子』の研究をライフワークにしている者です。この度、遅々たる研究の成果をやっと一書にまとめることになったので、その内容をご紹介しつつ、一足先に千年紀を過ぎたもう一人の女流文学者のお話を聞いていただけたらと思って登場しました。
紫式部が清少納言にライバル心を燃やす理由は、一条天皇の二人の后にそれぞれが仕えていたという立場上の問題が関係します。でも、それならなぜ、清少納言が紫式部に反論した記事は残っていないのでしょうか。
『枕草子』には紫式部の夫藤原宣孝(のぶたか)の記事が取り上げられており、紫式部がそれに反発して先の文章を書いたのだという意見もあります。『枕草子』の宣孝の記事というのは、「あはれなるもの」という章段に書かれたものです。ただし、本題の「あはれなるもの」とは関係のない余談とでもいえる挿入話です。
それは、藤原宣孝が熊野の御獄詣でをする際に、「神様は質素な装いで詣でよとはおっしゃっていない」と言って、息子と共にわざと派手な装束を纏って参詣し願を叶えたというもので、いかにも清少納言の好みそうな話題です。しかし、決して悪意を持って書かれてはいませんし、宣孝が紫式部と結婚する前の出来事であり、紫式部がことさらこの記事にこだわる理由はないと思います。
紫式部が藤原道長の娘である中宮彰子の許に出仕したとき、一条天皇のもう一人の中宮(皇后)定子は既に亡く、定子に仕えていた清少納言の方が紫式部をライバル視する立場にはいませんでした。にもかかわらず、なぜ紫式部が清少納言を一方的に攻撃しなければならなかったのでしょうか。
それは、定子崩御後もその洗練された後宮文化を世間に知らしめる『枕草子』という作品が存在していたからではないか、さらに、それが定子の遺した第一皇子を皇位継承者として認めさせるような力を持っていたからではないかと私は考えます。彰子が懐妊し、道長の孫となる第二皇子が誕生したとき、第一皇子を支える文化圏の筆頭にいた清少納言をここぞとばかり罵倒するのは、道長家のお抱え女房として必然的なことだったのではないでしょうか。
さて、これは拙著『枕草子日記的章段の研究』の結論に相当する部分です。ここに至るまでに私なりに多くの時間と様々な考察を費やしてきました。次はそれについて少しお話したいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお見知りおきください。