「人物の挙動が,その人物のキャラクタにふさわしくないことばで表現される」という例外的な現象を成り立たせる,例外的な文脈をこれまでに3つ紹介した。だが,例外的な文脈はまだ1つある。それは,例外的な事件が語られる文脈である。
ここで例外的な事件というのは,人の中身が悪い方向に変わってしまうという事件である。つまり「○○さんというのは××するような人ではなかったが,それがなんと××してしまった」という事件であり,だからこそ,この事件が語られる文脈では,それまで結びつくはずがなかった「○○さんが」と「××する」が結びつけられてしまう。
アニメ『サザエさん』のフネさんといえば,良妻賢母の典型のような『いい人』である。フネさんは他人の家に「上がる」ことや他人の部屋に「入る」ことはあるかもしれないが,他人の家に「上がり込む」ことや他人の部屋に「入り込む」ことは無いだろう。動詞に付く「込む」は,「中に」という物理的な意味だけでなく,しばしば悪いイメージをもたらすとは今井忍氏の指摘である。そのフネさんが隣家のイササカ先生宅に「上がり込み」,サザエの部屋に「入り込む」としたら,それはフネさんがグレてしまって『いい人』でなくなった場合だろう。逆に言うと,そうしたフネさんのグレっぷりが語られる文脈でなら,フネさんは家に「上がり込み」,部屋に「入り込む」ことができる。
もう少し切実な例を挙げよう。多額の負債を抱えて会社が倒産,人々に仰ぎ見られたあの大社長が富と権力を全て失い,落魄し,零落し,家族に捨てられ友人に見放され,打ちひしがれて酒におぼれ薬にたより,流れ流れて遂には路上の生活,昔日の面影はどこにもなく,今宵も安酒屋の店員にすがりついては振り払われ,不良に蹴られイヌに噛まれ子どもに石を投げつけられ,それでも残飯を求めて愛想笑いで路地裏をうろちょろする始末――などと言う時,「大社長」と「路地裏をうろちょろする」の結びつきは不自然ではない。それは,ここで語られているのが「往時の」大社長が「今は」路地裏をうろちょろするという,大社長の中身の変化だからである。
状況が変わっても人の中身は変わらないはずだが,それが変わってしまったのだから仕方がないというのがこの文脈である。「へー,あの人が!」と私たちを驚かせ,「あの人もねー。そうか。。。」と,私たちに人の世の無常を思わせ,感慨にふけらせるのは,まさにこの文脈である。この効果を「あの人もねー」効果と呼んでおこう。
興味深いのは,このように通常なら結びつかない「人」と「動作」を結びつける「人の中身の変化」というものが下方向つまり堕落に限られ,上方向はまず認められないということである。
「路地裏をうろちょろしていた人物が,いまは大人(たいじん)然と構えている」と聞いても,私たちはその人物の中身が変わったとは思わない。なにしろ「状況が変わっても人の中身は変わらない」のである。うろちょろしていた奴はそのうろちょろが本性なのであって,いまどれだけ大人然としようが,それは成り上がりが調子に乗ってうわべを取りつくろっているに過ぎない。いずれ状況が厳しくなればまた馬脚を現しうろちょろするに決まっている,などと思ってしまう。堕落が語られる場合とはえらい違いである。この意味で,問題の文脈を「堕落文脈」と呼ぶことにしよう。
このような一方向性は,人物の値打ちというものが本来,何かしら重力のような強い力に抗する形で存在するものであることを示している。「あの人もねー。そうか。。。」という私たちの感慨は,あれほど若かった知人の顔や体にたるみを見出し「あの人もねー」と嘆息する際の感慨と似ていなくもない。