日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第47回 内面排除の文脈と不適格性不問効果について

筆者:
2013年11月10日

話を本筋に戻そう。このところ注目しているのは「人物の挙動が,その人物のキャラクタにふさわしくないことばで表現される」という例外的な現象であり,この現象を成立させる例外的な文脈を挙げているのだった。第1の文脈は「リアル文脈」であり(補遺第40回第41回),第2の文脈は「「つもり」「ホント」の混在文脈」であった(補遺第42回第43回)。

ここで取り上げる第3の文脈は「内面排除の文脈」である。この文脈を紹介する前提として,まず,動作表現の外面と内面について述べておこう。

多くの動作表現は物理的な外面だけでなく,その動作に付随する心理的な内面をも表している。たとえば「たたずむ」主体が『大人』キャラに限られるのは,「たたずむ」という動作表現が「直立姿勢の持続」という外面だけでなく,「物憂い,うら寂しい情感に浸っている」といった『大人』キャラにふさわしい内面をも表せばこその話である。

内面排除の文脈とは,この内面を無効化してしまい,動作の外面だけを活性化させる文脈である。内面までを考慮すれば動作の主体としてふさわしくないキャラクタが,内面排除の文脈ではその不適格性を不問に付され(これをこの文脈の「不適格性不問効果」としておく),結果として幅広いキャラクタが動作の主体として許容される。

バルタン星人がフォフォフォと笑いながらハサミ状の両手を振り上げても,我々はそれを「勝利のガッツポーズ」とは普通思わない。だが,「ガッツポーズが基本姿勢みたいになっている宇宙人は?」などと問われると,バルタン星人に思い当たるのはそう難しくない。物理的な姿勢という外面を問題にする文脈では,ガッツポーズという動作の内面(勝利した自分の肯定・誇示)は度外視される。これが内面排除の文脈である。(それにしても古いなあ。)

そういえば「ポーズ」ということばには,たとえば「写真のモデルがポーズをとらされる」のような「内面抜きの外面」の意味と,「好戦的な言動は彼一流のポーズに過ぎない」のような「内面を偽る外面」の意味があるが,どちらの意味も「動作の内面と外面は分けられる」という前提の上に成り立っている。これと同じ前提に立って,内面を排除してしまうのが内面排除の文脈である。

文学作品から例を挙げてみよう。山本周五郎の『ちくしょう谷』には,西沢半四郎という男の「しがみつき」表現が繰り返される場面がある。次の(1)に挙げるように,支柱相手のしがみつきが描かれたかと思うと,すぐさま,朝田隼人を相手とするしがみつきが描かれている。

(1) 西沢は支柱にしがみついたまま,はっ,はっと激しく喘(あえ)いでいた。[中略]両手と両足で隼人にしがみついた西沢は,隼人の胸に顔を押し当てて,すすり泣いた。[中略]西沢は身をちぢめて,しがみついた手足に力をいれ,軀(からだ)全体でふるえた。

[山本周五郎『ちくしょう谷』1959.]

動詞「しがみつく」が単なる身体固定だけでなく,動作の主体の弱々しいキャラクタまでも表すということは,コアラを例に述べたとおりであって(補遺第45回),ここでも「しがみつき」は「あえぎ」「すすり泣き」「ふるえ」と相俟って,西沢の幼児のような情けないテイタラクを効果的に描き出している。

だが,西沢にしがみつかれている隼人にしても,実は「綱に吊られて,振子のように左右へ揺れ」ており,「綱の揺れを止めることができず」にいるとある。なんだ隼人も情けない奴と思われるかもしれない。だが,そんな印象は,『ちくしょう谷』の文脈を知れば立ちどころに消えてしまうだろう。

隼人は村の崩れた架け橋を架け直そうと,断崖から綱一本で,支柱を背負って降りてきているのである。隼人のぶら下がり,それに付随する揺れは,すべてこの企ての一部であり,ここではこの企てが達成されるか否かという物理的な面に焦点が当てられている。これが内面排除の文脈である。この文脈下の隼人なら「綱に吊られ」ようが「左右へ揺れ」ようが,あるいは支柱にしがみつこうが岩にしがみつこうが,ちっとも情けなくはない。不正を働いた上に,それを発見した上司の朝田織部(隼人の兄)を謀殺し,いままた隼人を暗殺しようとした西沢が,失敗してバランスを失い,「助けてください」と言って隼人に「しがみつく」のとは,わけが違う。この文脈は西沢にとってはもちろん内面排除の文脈などではない。(周五郎先生,ネタばれ,すみません。)

「助けてください」という西沢のことばに,隼人は打たれる。

(2) 「しっかりつかまっていろ」
  隼人はそう云って,注意ぶかく崖を蹴った。

[山本周五郎『ちくしょう谷』1959.]

西沢に向けられた隼人のことばは「しっかりつかまっていろ」であった。もしこれが明け透けな「しっかりしがみついていろ」であったなら,すっかり観念している西沢の心の奥底で,消えたはずのプライドに再び小さな火が灯ったかもしれない,なんて思うのは私だけだろうか。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。