1907年7月20日、大韓帝国皇帝の高宗は、ハーグ密使事件の責任を取って退位し、息子の純宗に帝位を譲りました。これに伴い、朝鮮各地で暴動が発生しましたが、大韓帝国と大日本帝国は7月24日、新たな日韓協約を締結し、大韓帝国の外政も内政も、全て大日本帝国が掌握することになりました。新たな日韓協約のもとで、純宗は朝鮮軍を解散し、暴動の鎮圧は日本軍がおこなうことになったのです。もちろん、高宗と純宗は、「安全上の理由」により、日本軍の監視下に置かれました。山下は7月25日、朝鮮統監の伊藤に宛てて、西園寺の祝電を送っています。
ニツカンケフヤクノジンソクニカツマンゾクニケフテイサレタルハゴドウケイニタヘズ。ヘイカニオイテモフカクゴマンゾクニオボシメサル。ココニカツカノゴジンリヨクニタイシシンコウノシヤイヲヘウス。
1907年8月16日、山下は西園寺とともに、大磯駅にいました。一時帰国した伊藤を出迎えるためです。伊藤の自宅である滄浪閣は、大磯駅から西に500メートル、海辺の松林の中にありました。伊藤の帰国に合わせて、大磯駅から滄浪閣まで専用道を建設し、この日が開通式を兼ねていたのです。統監道と名づけられた専用道では、左側(海側)に出迎えの人々がずらっと整列し、伊藤の到着を待っていました。
13時26分、伊藤の乗った列車は、約30分遅れで大磯駅に到着しました。真っ白な統監服に身を包んだ伊藤は、微笑をたたえつつプラットホームに降り立ち、西園寺をはじめとする出迎えの者たちに軽く挨拶しました。「伊藤統監万歳」の声の中、伊藤は人力車に乗り、統監道をゆっくりと滄浪閣へと向かっていきました。空には、昼となく夜となく花火が上がり、さらには提灯行列の準備まであるという大歓迎ぶりで、それはまさに「凱旋」と呼ぶにふさわしいものでした。8月18日の東京朝日新聞は、こう伝えています。
伊藤統監いよいよ帰朝し来り、一両日中宮中の御都合を伺い、奉りて参内すべしと云う。そもそも今度のハーグ密使事件善後処分につきては、統監の功労まことに少なからず。国民は既にこれを認識し、その乗艦の門司に着するや否や、たちまち歓迎の声を揚げたり。これを初発として、今後統監の到る処に鯨波の起るを見ることならん。しかもその滞朝は想うに必ず長からじ。韓国の事、既に大いに定まるといえども、新協約施設の件に至っては、未だ定まらざる所あり。而して一々統監の指授を実地に待つ。今度の帰朝も、畢竟この新事務に関する要件を帯びての事に相違なく、親謁復命を第一の事として、別に親しく今度のその方針について裁制を仰ぎ奉る事もあるべく、また政府の当局者と協議の事もあるべきなり。さればその短き滞京期中には、随分多くの韓国関係問題が決定せらるべき運命を有す。
(山下芳太郎(14)に続く)