1907年8月18日の東京朝日新聞は、こう続けます。
しかし吾人を以てこれを見れば、問題の根本は動くべくもあらず。形式においても、事実においても、韓国は日本の保護管理指導の下に自治すべきなり、自治せしめざるべからざるなり。自治といえば、何やら議会を起して、韓国民をして自治せしむるが如き意味にも取らるべけれど、将来は知らず、今日においては韓国民に自治の能力なきや明かなり。従ってこの意味の自治は、現在吾人の理想にさえも上り来らず。いわゆる自治は、日本の保護管理指導の下に立てる韓国皇帝の自治を意味するに外なる能わず。否、一歩を進めてこれを謂えば、伊藤卿を始めとし、韓国の政治を掌れる日本人の自治に外なる能わず。変則といえば勿論変則に相違なけれど、新協約に顧み、現状に顧み、この意味の自治こそ今日の韓国に最も適応なるべけれ。
山下が見た伊藤の真っ白な統監服と、「伊藤統監万歳」の声は、そのまま、「日本の保護管理指導の下に立てる韓国皇帝の自治」そして「韓国の政治を掌れる日本人の自治」に対する日本国民の熱狂へと繋がっていたのでしょう。
1907年9月26日、山下は、再び大磯駅にいました。伊藤の出発を見送るために、前夜から西園寺の大磯別荘「隣荘」に泊まり込んでいたのです。この一ヶ月間というもの、伊藤と西園寺は数々の会議をこなし、大韓帝国の司法制度改革、土地制度改革、教育制度改革、道路交通機関の改良、そしてそれらの改革・改良に必要な予算に関して、筋道を付けて回りました。まだ、筋道が完全に付いたわけではなかったのですが、皇太子嘉仁親王の訪韓が急浮上したことから、伊藤は職責上、一旦、京城に戻ることになったのです。西園寺は、滄浪閣でシャンパンを開け、伊藤とグラスを交わしたのち、人々の見送る統監道を、伊藤とともに大磯駅へと向かっていました。午前9時過ぎ、山下の待つ大磯駅に現れた伊藤は、黒の統監正服にステッキ、口元には葉巻という出で立ちでした。「伊藤統監万歳」の歓声、そして打上げ花火。貴賓車に乗り込んでからも、伊藤は、プラットホームの西園寺たちにジョークを飛ばし、微笑をたたえ、悠然と去っていきました。
ところがこの直後、西園寺は体調を崩します。胃カタルの診断を受けた西園寺は、山下を連れて、箱根の塔ノ沢温泉に湯治に出かけたりもするのですが、なかなか快方に向かいません。それもそのはず、この時、日本の国家財政は火の車でした。国内の鉄道を国有化した上に、南満洲鉄道株式会社を設立し、さらには大韓帝国にまで特別予算を割いているのです。大量の国債発行をおこなったとしても、明治41年度(1908年度)の予算案は、審議の目処すら立たない状態になっていました。首相である西園寺は、窮地に立たされていたのです。
(山下芳太郎(15)に続く)