1889年1月8日、オール女史は、ボストンにいました。オール女史は、ボストンのブライアント&ストラットン商業学校で開催されたタイプライターコンテストに、ゲストとして招かれていました。
ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社と契約を結んで以来、オール女史の生活は、多忙を極めていました。レミントン・タイプライターを代表する世界一のタイピストとして、アメリカ各地を鉄道で、旅から旅を続けていました。それは、ある意味、タイピストというより、旅芸人としての生活だったのです。一方、ブライアント&ストラットン商業学校の校長ヒバード(Hermon E. Hibbard)は、このタイプライターコンテストの優勝者と準優勝者に、合わせて150ドルの賞金を準備していました。商業学校の学生たちに、簿記のみならず、速記やタイプライターにも興味を持たせるべく、ヒバードは、このタイプライターコンテストを企画したのです。同時に、世界一のタイピストの技術を、学生たちの目の前で披露してもらうことにより、学生たちのタイピストへの意欲を、鼓舞したいと考えていたのです。
ただ、結果的に、このタイプライターコンテストは、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社のお手盛りとなってしまいました。コンテストの参加者は、ソルトレークシティから来たマッガリン、カラマズーから来たマッガリンの弟チャールズ(Charles Henry McGurrin)、ニューヨークから来たマインケ女史(Eva Meincke)の3人で、いずれも「Remington Standard Type-Writer No.2」を使用していました。地元ボストンのタイピストは、コンテストに参加していませんでした。「Caligraph No.2」のオペレータとして知られる、ユニオン・パシフィック鉄道のキャンフィールド(Edward Canfield)は、コンテストの参加者ではなく、審判を務めることになっていました。
オール女史も、コンテストの参加者ではなく、あくまでゲストとして、その腕前を披露しました。口述タイピングでは、1分間あたり100ワードものスピードを、2本指打法で叩きだしました。さらに、手書き文書の清書では、1分間で108ワードも叩きましたが、たった1個所だけ間違いがありました。
タイプライターコンテストそのものは、口述タイピングが30分間と、手書き文書の清書が30分間、の二本立てでおこなわれました。口述タイピングでの読み上げは、オール女史がおこないました。判定の結果は、マッガリン兄が合計4550ワードで優勝、賞金の100ドルを手にしました。2位はマインケ女史で、合計4325ワード、賞金50ドルを手にしました。優勝したマッガリンは、目隠しタイピングのデモンストレーションをおこない、目隠しで1分間89ワードのスピードを披露しました。優勝したマッガリンの腕前は、オール女史に匹敵するが、それでもオール女史より少しだけ遅い、という演出が、そこかしこでなされたのです。
(メアリー・オール(5)に続く)