1943年4月14日、蒲田の新興製作所は、花巻から、勤労報国隊の最初の30人を受け入れました。谷村にとって、これは賭けでした。勤労報国隊は、花巻で商業に携わっていたものがほとんどで、その年齢は、谷村と同年代か、あるいは年寄りの方が多いくらいでした。精密部品が多い電信機の製造技術を、果たして習得できるのかどうか、谷村には疑問でした。花巻町長の宮沢直治や、町役場主事の及川亀治に、押し切られた形での勤労報国隊の受け入れだったのです。この時のことを、谷村は、のちにこう回想しています。
花巻の先発報国隊の三十人が餅だダンゴだとリュックに一杯詰め込んで登山隊のような恰好で上京して来た。郷里の旦那方とあれば、全力労働をお願いするわけにもいかないし、そこが旦那方の狙いでもあったのだが、それでは折角の花巻分工場の将来も思い遣られるので「外ならぬ皆さんですからお気持ちは大事にします。然し戦時体制下で、他の従業員と差別待遇は出来ません。それに分工場のこともありますから、困難を忍んで勉強して下さい」とその夜は一杯やって同志の誓いを固め、みんな一緒に寮に入って貰いました。
それでも谷村は、花巻に分工場を作るべく、妻とともに花巻を訪ね、さらには分工場の設置許可を得るべく、盛岡の岩手県庁にも足を運びました。28年ぶりの盛岡は、すっかり様子が変わっていました。季村医院は、息子に代替わりしていました。田畑が広がっていたはずの盛岡駅周辺は、飲食店が立ち並んでいて、しかもそのどれもが閉店していました。企業整備令の影は、もちろん盛岡にも及んでいたのです。
報国隊の宮沢卯三郎の廃店舗や、花巻町内の建物を借り受け、谷村は、新興製作所花巻工場の準備を始めました。また、蒲田高等女学校の校舎を一部、新興製作所の工場に転用し、花巻からの勤労報国隊の第2陣以降や、宮古や岩泉の学童挺身隊を受け入れる準備も始めました。つまるところ花巻と蒲田の両方で、新しい工場を立ち上げる羽目になってしまったのです。谷村は、蒲田と花巻の往復で、目の回るような忙しさとなりました。
1943年8月、谷村は、勤労報国隊の第1陣を花巻に返し、花巻工場を始動させることにしました。3ヶ月そこそこの期間ではあったものの、勤労報国隊は、思いのほか勤勉でした。「花巻の旦那方」も必死だったのです。企業整備令で職を奪われ、その上、もし花巻工場の立ち上げにしくじれば、もはや生きていく術がないのです。ギリギリの崖っぷちだったのです。電信機の完成品を作り上げるには、まだまだ不十分なものの、各部品を必要な精度で製作する技術だけは、ものにしなければいけなかったのです。
(谷村貞治(7)に続く)