タイプライターの父、ショールズ(Christopher Latham Sholes)は、1819年2月14日、ペンシルバニア州のムーアズバーグに生まれました。18歳の時に、兄のチャールズ(Charles Clark Sholes)を頼って、ウィスコンシン準州のグリーンベイに移り住み、兄のもとで新聞編集に携わりました。21歳になったショールズは、サウスポート(1850年4月ケノーシャ市に昇格)に移り住み、1840年6月16日にサウスポート・テレグラフ紙を創刊、みずから編集長となります。翌1841年2月4日に結婚、生涯に少なくとも11人の子をもうけました。29歳の時には、兄チャールズともどもウィスコンシン州議会議員に立候補し、見事当選、その後は新聞編集者と議員を兼任しています。
1853年10月、ショールズは、オシュコシュの新聞経営者デンスモア(James Densmore)と共に、奴隷制廃止・黒人参政権を軸とする政治色の強い新聞の発刊を計画しましたが、経済的理由で頓挫、代わりにショールズは、ケノーシャ・テレグラフ紙(1850年4月にサウスポート・テレグラフ紙が名称変更)の経営にデンスモアを招き入れました。実は、ケノーシャ・テレグラフ紙の経営も火の車だったのです。デンスモアは、ライバルのケノーシャ・トリビューン紙との合併を画策し、2紙は1855年1月にケノーシャ・トリビューン・アンド・テレグラフ紙となりました。しかし、ケノーシャ・トリビューン紙出身の編集者たちと、ショールズは反りが合わず、1857年4月にショールズは同紙を辞職、ミルウォーキーに移り住みました。
ショールズが発明に目覚めたのは、シンシナティから来たソレー(Samuel Willard Soulé)との出会いがきっかけでした。ソレーが自分の発明品『新聞に宛先を印字する機械』を、ミルウォーキー・ニュース紙に売り込みに行ったところ、同紙のゴッドフリー(George Godfrey)が、ソレーをショールズに引き合わせたのです。1860年10月のことでした。ショールズはソレーの発明品に惚れ込み、その権利を買い取ると同時に、ソレーと共に新たな発明に取りかかりました。
ところが、1860年11月にリンカーン(Abraham Lincoln)が大統領になると、ショールズの周辺は急にあわただしくなりました。奴隷制廃止論者の共和党員だったショールズは、ウィスコンシン州の要職をまかされるようになったのです。ポトマック戦線の視察官、ミルウォーキー郵便局長、ミルウォーキー港の収税官など、多忙な職務の中、ショールズの発明熱はますます高くなっていきました。